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魯迅と藤野先生

1 :名無的発言者:04/03/17 10:47
魯迅は明治三十七年(1904)九月に仙台医学専門学校(現東北大医学部)に留学した。
そんななかで出会ったのが藤野巌九郎という解剖学の教授だった。
小説「藤野先生」は、魯迅と古武士を思わせる先生との心の通いを軸にして一年半の仙台での暮らしを描いた。
藤野先生はある日、魯迅にノートの提出を求める。
2,3日後に返されたノートは「初めから終わりまで、すっかり朱筆で添削され、文法の誤りまでいちいち訂正してあった」。
しかしこの行為が日本人学生の疑惑を招くことになる。
中国人がいい点をとったのは藤野先生が試験問題を漏洩したためではないかと疑ったのだ。
疑いは晴れたが、魯迅の心は痛む。
さらに追いつめるような「事件」が起きる。
階段教室で魯迅は日露戦争中に中国人のロシアのスパイが処刑される幻灯を見せられた。歓呼の声をあげる同級生、画面のなかでの処刑をみる中国人群衆の笑い顔が胸をえぐった。
「もはや言うべき言葉がない」と書き留める。
そして「彼らの精神を改造することである。それに役立つには医学でなくて、文芸を挙げるべきだ」(駒田信二訳)と思うようになった。
医学を断念、仙台を去る魯迅に、藤野先生は自分の写真を手渡した。裏には毛筆で『惜別 藤野」と書かれていた。その写真はその後、魯迅の家に掲げられた。
「わたしの師の中で、彼はもっともわたしを感激させ、励ましてくれた一人なのである。私に対する教えは、小にして言えば中国のためであり、中国に新しい医学が興ることを希望してである。
大にして言えば、学術のためであった」
魯迅にとって「藤野先生」は青春時代のモニュメントだった。

2 ::04/03/17 10:48
2>だいがくじゅぎょ-、ネタ。

3 :満人:04/03/17 10:49
藤野先生は昔の日本人の典型でした
父祖の高邁が偲ばれます

4 ::04/03/17 10:52
プッ

5 :名無的発言者:04/03/17 10:54
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/novel/rozin.html
ネットで読める

6 ::04/03/17 10:55
プッ

7 :藤野先生のその後:04/03/17 10:55
彼は、仙台医科専門学校が東北帝国大学の医学部に昇格したときに教授になれず、故郷の福井に帰り開業医として一生を送ったそうだ。
そして、終戦の年に、患者の家に駆けつける途中に息絶え、この世を去っている。
自分の健康のことを顧みず、死ぬ間際まで患者のことを思い、そして路傍でその人生を締めくくった藤野先生の生きざまは、魯迅のエネルギーとなるに十分に足りるものであった。
魯迅がこの最後を知ったならば、尊敬してやまなかったその思いを、さらに強めたろうと思う。

8 :名無的発言者:04/03/17 11:00
アカはそれでも「プッ」と書く。
但し、頭悪いので「プッ」以外は書けない。


9 ::04/03/17 11:05
キミ、ドコカラキタノダイ。


ヨケイナ、ガクシュウハシナクテヨイヨ。 プッ

10 ::04/03/17 11:07
ワカッタカナ?

11 :名無的発言者:04/03/17 11:09
>>8
相手にするな。

12 ::04/03/17 11:12
なんで?

13 :名無的発言者:04/03/17 11:18
アカは漢字も書けない

14 ::04/03/17 11:22
キャ--ウレ*シイ!(´З`)チュッチュ(・∀・)ッチュチュ\(^@^)/

15 :麦!:04/03/17 11:25
タマニ、*ナマエヲ、カエテルヨ。

16 :名無的発言者:04/03/17 11:28
一九八六年に、この新聞がアンケート調査を行ないました。対象は大体二〇代から三〇代前半の若者で、調査のテーマは日本イメージに関するものです。
その結果によれば、過半数の人たちは日本嫌悪という気持ちをはっきりと表明しました。その理由は、まず日本人という人種が野蛮な民族で、人を殺すのが好きで、戦争責任をとらないということでした。
しかし、戦争の実態について、若者がどれだけ知っているか、といいますと、実は意外に知っていないわけです。年齢からも知識の上からも、そんな可能性をもっていません。
すると一つの問題が出てきます。ほとんど情報不足の状況のなかで、なぜそういうふうに日本嫌悪を強く表明しているのでしょうか。


17 :麦!:04/03/17 11:30
フウ。楊ニキイテヨ。ソンアコト。

18 :名無的発言者:04/03/17 11:32
それから一三年たって、もう一つの出来事がありました。今年の前半に、北京である新劇が上演されました。タイトルは「私の知っている日本兵」(「我認識的鬼子兵」)です。
原作は日本でアルバイトをしながら勉強したある就学生が書いた小説で、それに基づいて、日本について何も知らない新劇の監督が戯曲を作って上演したわけです。
私はそれを見に行って、びっくりしました。というのは、この芝居が明らかに日本不在の日本についての物語だったからです。
なぜそう感じたかといいますと、登場人物はすべて老人か子どもで、日本社会から周縁化されている人とまだ社会人になっていない人たちばかりです。
社会人として登場した人物は右翼のテロリストだけです。舞台の中心を占めている主人公は昔の日本兵で、大体三つのタイプに分かれます。
一つは、自分の参加したあの罪悪的な戦争を反省しながら戦争反対運動をつづけているタイプで、もう一つは、罪悪を犯したのでいまでも苦しんでいるタイプで、そして三番目は、
頑固な天皇主義者でいまでも戦争時の立場で中国に敵意を持っているタイプです。
この三つのタイプはいずれも概念化された人物で、芸術の水準から見れば、明らかに失敗作と言えます。
問題は、この監督の一連の作品のなかで、今回の芝居が一番成功したということです。毎回必ず猛烈な拍手を受けて、評判もよかったのです。
そこで、どのような人びとが拍手しているかについて、調査してみました。わかったことは、二種類の人間が感動したらしいのです。
一つは、年をとっている方々です。戦争時代にはまだ若かったのですが、その時代の体験をもっています。もう一つは、若い大学生です。
この種の人びとは芝居を見る時に一番うるさいのですが、今回は意外にもうるさく言うどころか、かえって感動しているらしいのです。



19 :麦!:04/03/17 11:32
楊ニ、アイニイッタライイヨ@

20 :名無的発言者:04/03/17 11:37
ところで、私がここで追究したいものは、この極めて無理解な、概念化されている日本イメージは、どういうルートでできてきたのか、という問題です。
資料的にみれば、中国の日本研究および日本紹介というものは、一〇〇年以上の歴史があって、日本論はいろんな階層によって大量に書かれてきました。
知識階層で言えば、中国の知識人の代表者である魯迅を始め、一連の文学者、学者たちはほとんど日本留学の経験を持っているわけです。
それから、外国学のなかで日本学という学問も一番発展していると言えます。したがって日本について無理解になるはずがないのに、実は非常に無理解である。
日本についての理解の不在は、一つの大きなギャップから出て来たと考えられます。
政治家たちの日本イメージは、基本的に日本を丸ごと一つのものとして扱っています。
その丸ごと一つのものという認識に対して、いわゆる知識人たちはどのような方向で動いていたのか。それを分析すると、なかなかおもしろい現象がわかります。
例えば、梁啓超は日本に来まして、日本語は三カ月で卒業できると宣言しました。漢文のお蔭と梁氏の才能は否定しませんが、それと同時に、彼にとって日本という国は一つの窓口にすぎず、
根本的には自分の関心の対象にはなっていませんでした。むしろ日本経由で西洋を見るわけです。このタイプの知識人は、来日した知識人のなかで圧倒的な多数派で、
彼等は日本語がかなり上手に使えますが、日本に対してほぼ無関心です。その代表が魯迅だと思います。
そういう知識人たちは、日本研究、日本理解という、必要な空間を創りませんでした。むしろ、彼等は日本嫌悪というイメージを創出したわけです。
魯迅の「藤野先生」という文章を読めば、非常にそれがよくわかります。
しかしここで強調したいことは、魯迅の日本嫌悪は非常に特別なものです。彼はナショナリストではなくて、むしろ国境を越えること自体が彼の憧れでした。
彼はそのような境を「学術」、「学問」と読んでいますが、その時代において、そのような可能性は一切存在しませんでしたので、彼は日本を批判しながら、
中国の国民性の改造という仕事を自ら設定したわけです。



21 :麦!:04/03/17 11:39
ウザイヨ---シクシク。

22 :名無的発言者:04/03/17 11:43
魯迅著「藤野先生」は、中国の中学校の教科書に採用されており、藤野厳九郎のことを知らない中国人はまずいないとまでいわれている。


23 :名無的発言者:04/03/17 11:45
魯迅は、藤野先生のように、何事によらず一つの事に対して文字通りの命がけでやる真面目さが日本人の長所で、中国(民族)にとって必要なものと語っている。

24 :名無的発言者:04/03/17 11:48
魯迅と藤野は日本で別 れた後、再び会うことはなかったが、藤野から受けた数多くの親切を忘れられなかった魯迅は終生彼を恩師として尊敬していた。
日本で『魯迅全集』が発売されるに当たり、消息不明の藤野と連絡がとれるのではと『藤野先生』を全集に入れることを熱望するほど、魯迅は藤野に会いたがっていたという

25 :名無的発言者:04/03/17 11:53
日本の学者は魯迅を借りて、自国の近代化の欠点を反省している。こうしたことは、中国の知識人にはほとんど理解できないだろう。
「日本の社会の矛盾がいつも外へふくれることで擬似的に解決されてきたように、日本文学は、自分の貧しさを、いつも外へ新しいものを求めることによってまぎらしてきた。
自分が壁にぶつからないのを、自分の進歩のせいだと思っている。そして相手が壁にぶつかったのをみると、そこに自分の後進性を移入して、相手に後進性を認める。
ドレイは、自分がドレイの主人になろうとしているかぎり、希望を失うことはない。かれは可能的にドレイではないから。したがって自分がドレイであることの自覚もうまれない」
(竹内好著『魯迅と日本文学』から)
竹内好のこうした自国に対する反省は、たいてい魯迅の啓発を受けたものだろう。そしてまた、魯迅の思想の形成も、日本からの橋を通じて自然に完成したに違いない。
そうした相互作用は、我々中日の知識人にとって非常に重要である。我々はこうした相互理解によって共通点に達することができた。
大江健三郎の文章を読むと、私はこのような手ごたえを感じる。彼の批判精神は、魯迅のものと明らかに似通っている。
自分自身について考えるという点においても、中日の知識人の間にある種の共通点があると思う。



26 :名無的発言者:04/03/17 12:02
「どの民族も、20世紀を回顧するとき、みな思い出したくない記憶がある。それは民族の恥辱でもあり、他人に言えない精神的な苦しみでもある。
こうした民族の精神的なケロイドを敢えて暴露し、したたり落ちる鮮血を正視し、正確にそのつらい歴史の教訓を総括することができるかどうか、
これは苦痛を通して成熟することができるかどうかの重要なメルクマールである」と。


27 :名無的発言者:04/03/17 12:10
魯迅は藤野先生の消息を知らないまま、1936年(昭和11)の3月に発病して、10月19日にこの世を去りました。このとき56歳でした。

28 :名無的発言者:04/03/17 12:10
江沢民の無理な強圧外交は長続きしえない。いずれ「50年前の
出来事」でいがみ合っている愚かしさに気がつくであろう。その時
こそ、両国は、宮中晩餐会で陛下の述べられた両国国交の基本に立
ち返らなければならない。

貴国(中国)と我が国が今後とも互いに手を携えて、直面す
る課題の解決に力を尽くし、地球環境の改善、人類の福祉、世
界の平和のため、貢献できる存在であり続けていくことを切に
希望しています。

 さらに陛下はそのための道として、さりげなく魯迅の「藤野先
生」に言及された。「近代中国の父」と言われる魯迅は留学した仙
台医学専門学校(現在の東北大医学部)での藤野先生との友情を描
いている。この作品は中国の高校の教科書にも取り上げられ、仙台
は中国ではよく知られた土地だという。

 国交とは、政府の外交ばかりではない、人と人との心の通いあう
友情こそが、まず基盤になければならない、そう陛下は言われてい
るのかもしれない。それなら、我々国民にもできる事だ。日本で学
んだり、働いたりしている中国の人々に心配りをする、あるいは、
中国に進出した日系企業が、現地の人々の育成と経済発展に貢献す
る、そういう中から、第二、第三の魯迅と藤野先生の友情が生まれ
てこよう。

江沢民は、陛下のお言葉に呼応するかのように、訪日の最後に仙
台市内にある魯迅の記念碑や東北大学を視察した。実は江沢民も、
内心では、この事を分かっていたのではないか。


29 :麦!505:04/03/17 14:10
削除。たんぱつだ!!

30 :麦!505:04/03/17 14:32
30>単発!!!

31 :名無的発言者:04/03/17 17:11
「藤野先生」に見る中国人らしさ。

@写真を後で送るように頼まれたのに送らない。
        ↓
金にならないことは行動に移したがらない。
約束を守らない。

A不義理をしている言い訳をあれこれ作る。
        ↓
そんなに世話になったんなら、つべこべ言わんと便りくらい寄こしたれや。

結論:
魯迅も、現在日本滞在中の支那就学生・留学生も大して変らん



32 : 何足道 :04/03/17 17:53
面白ぃ>>31

33 :名無的発言者:04/03/17 19:48
カネの切れ目が縁の切れ目

34 :名無的発言者:04/03/18 09:05
支那人は何処まで行っても駄目、が魯迅の結論

35 :名無的発言者:04/03/18 09:20
その支那人がいまや日本の元プロ野球選手を年俸16万円!で買う時代だ

元西武の前田が上海入り 契約総額は約16万円(共同通信)
【上海17日共同】西武や中日でプレーした前田勝宏投手(32)が16日、
中国プロ野球リーグ(CBL)の上海ゴールデンイーグルスと正式契約を
結んだ。日本人選手のCBL入りは史上初。前田投手が17日明らかにした
ところでは、主に救援投手として起用される予定で、契約額は1カ月
4000元(約5万2000円)。公式戦は4月2日の開幕戦から6月まで
約3カ月のため、年間では1万2000元(約15万6000円)となる。
前田投手は兵庫・神戸弘陵高出身で、1993年にドラフト2位で西武に入団。
150キロ台の速球を武器に注目されたが、制球難で1勝もできず、96年から
米大リーグ、ヤンキースに移籍。メジャーに上がれず、01年に中日、02年は
台湾、昨年はイタリアのプロリーグでプレーした。

36 :名無的発言者:04/03/18 20:19
「藤野先生」が中国の教科書に載っていると聞き、少し安心した。

実は、藤野先生のような教師は、中国にはそれこそ無数にいる。
昔いたのではなく、いまも、こうしている内にもいる。

いまでは、中国人と言えば不法就労や窃盗団の代名詞になってしまった感が
あるが、中国人の常套語のように「それは、一部の中国人である」。
私は、実際にこの目で見て感じ、知ったことだから、そう言っている。

藤野厳九郎先生のような、謹厳で清廉で質素で、人生を達観した人は、
私の狭い行動半径だけでも、すぐに7〜8指にのぼってくる。

日本人が、1200年代以降、鎌倉室町戦国江戸明治と受け継いで来た、
いわゆる日本精神みたいなもの、武士の潔さとか、清廉さみたいなもの。
そんなに、それが大事なこととのたまうならば、それはそれで、わかった。

ならば、遥か紀元前の昔から、孔老墨名法等々連綿と脈々と受け継がれてきた、
中国思想は、中国人には、受け継がれず、いまや、中国人は、鬼畜同然の存在に
成り果ててしまい、何も伝わっていないなどという、論拠は、
いったいどこにあるのでしょうか?

ぼくは、実際に、北京で藤野厳九郎先生たちに、学問を教わった。
藤野先生は、いまも毎日、教壇に立って、後輩を指導しておられる。
世の中の軽佻浮薄とは無縁に、涼やかに生きておられる。

きっと、藤野先生は、何ごともなかったように、
静かに微笑んでくださることでしょうな。

37 :名無的発言者:04/03/19 07:11
チベットにも漢族の「藤野先生」がいるはず。
チベット解放後、チベット人達は自分達の「藤野先生」をなつかしく語るはずだ。
もちろん大多数の漢族は鬼畜。

38 :大學教授:04/03/19 07:33
 支那人の教授達は休み時間にキャンパスで餃子を作って賣ってゐます
 赤貧極貧ではあっても、清貧のイメージとは程遠いですぞ

39 :名無的発言者:04/03/20 01:14
中国の北京に、今は亡き有名な作家魯迅の旧宅が残っている。
魯迅とは「阿Q正伝」その他で、国際的に有名な中国を代表する文豪である。その家の中に一枚の写真が今も置かれてある。
その写真の主は、本荘村(現あわら市)の下番で、大正5年から昭和20年8月11日に亡くなるまで町医者として町民に親しまれた藤野厳九郎先生である。
藤野先生は、明治7年に下番の医師下番の医師藤野升八郎の三男として生まれ、幼少より父に漢文を習い、8・9歳の頃中番にあっ た野坂塾で学んだ。
この漢学を学んだことにより、中国5千年の歴史に目と心が開かれていったと思われる。やがて先生は、龍翔小学校へ、ついで福井中学校を経て愛知医学校へと進み、優秀な成績をもって卒業した。
そして母校と東京帝国大学で、引き続き解剖学を研究して、明治34年に招かれて仙台医学専門学校講師となりやがて教授となった。
明治37年、清国(現在の中国)から1人の留学生が仙台医専に入学してきた。名前を周樹人(後の魯迅)といい23歳の多感な青年であった。
この青年が藤野先生の講義をノートして、先生に提出したことから深い師弟関係が始まった。
異国の地で学ぶ魯迅に、朱筆で誤字や脱字を直しながら、偉大な隣国の学生を育てていったのである。
時あたかも日露戦争の最中で日本は中国を軽視する風潮があったので、この藤野先生の魯迅への親切は、彼の脳裏に終生深く刻み込まれたのである。
やがて魯迅は志を文学に変えて仙台医専を去るが、2カ年の生活は後に魯迅選集の中の「藤野先生」として世に出たのである。

40 :名無的発言者:04/03/20 11:06
>>36
ああ、分かってるさ。だが、あんたの言うような人も全体としてみれば
ほんの一部って事分かってるか?良い奴もいるし悪い奴もいる。
だけど、日本で犯罪働く支那人がたくさん居る。同じ一部でもな。

41 :名無的発言者:04/03/20 12:36
31の言うとおりかな。

今でも、日本の教授にえこひいきされておきながら道をそれてしまう「勝ち組」留学生は後を絶たない。

42 :大學教授:04/03/27 11:41
エコヒイキモしてゐないと思ふのですが

43 :名無的発言者:04/04/01 11:31
日本人になりたかった魯迅‥

44 ::04/04/03 17:34
the End

45 :白兎 ◆3.61668012 :04/04/03 18:09
『藤野先生』はぎりぎり一般教養レベルだと思う。
まあ、中国は教養レベル低いから誰もが知ってるとはいかないが、
日本で言えば“新潮文庫の百冊”に入る程度の知名度と思ってよいのでは?


ところで、『幻灯事件』がネタだというのは常識と思ってよいのでしょうか?

46 :名無的発言者:04/04/07 13:54
支那人に絶望してゐた魯迅‥


47 :白兎 ◆3.61668012 :04/04/07 14:16
支那人の駄目さに対する噴出すような怒りが魯迅。

48 :名無的発言者:04/05/01 00:42
藤野先生は典型的な日本武士像

49 :シナ人留学生:04/05/01 01:05
>>48
  大正天皇は?(笑)

50 :シナ人留学生:04/05/01 01:08
大正天皇は糞野郎だ!今すぐ宮内庁に大シナ人を認めさせよう!(握りこぶし)

51 :名無的発言者:04/05/01 01:10
魯迅は真に>49の様な花痴支那人に絶望していたのだ。

52 :名無的発言者:04/05/09 08:28
阿Qレベルに退行しとるな最近の中国民衆は

53 :慎犬朗 ◆nPFjdbph4w :04/05/09 08:34

阿Qか、このクソウヨ=ブサヨは?、うひゃっw!

阿Qの意味を辞書で調べてから使ったほうがいいぞ、うひゃっw!

54 :名無的発言者:04/05/16 23:35
魯迅は支那人に絶望してゐた

55 :名無的発言者:04/05/17 14:07
>>52-53
参考文献  加地伸行著
『現代中国学 ――阿Qは死んだか――』 中公新書 1997

慎犬朗 ◆nPFjdbph4w とやら、あんた前からいるブサヨだな。必死だな。

56 ::04/05/17 14:25
シナリュウ、ラブ
これからも、麦ニレス!!!

57 :名無的発言者:04/05/17 22:55
藤野先生だって、今日日の支那人留学生には怒るだろう

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