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自称天皇について語り尽くす

1 :日本@名無史さん:04/02/08 04:27
長浜天皇
1896〜1984 享年88歳

鹿児島県の硫黄島には西朝伝説が残っており、
その島では長浜天皇が古くから天皇と呼ばれていた。
その起源は第81代安徳天皇にまで遡るという。
壇ノ浦の戦いでわずか8歳にして入水して果てた安徳天皇は、この島に流れ着き
生きながらえ66歳まで生きたと言われこの島には安徳帝の陵墓まである。


2 :日本@名無史さん:04/02/08 04:35
ソースキボンヌ

3 :1:04/02/08 04:42
漏れはこの天皇の本ってやつを呼んで初めて知った
http://www.gakken.co.jp/mu/books/es/es3.html

4 :日本@名無史さん:04/02/08 04:53
>>1
他にはないのか?

5 :日本@名無史さん:04/02/08 05:10
なら一番有名な熊澤天皇。
1890〜1966 享年76歳

この人は自称天皇を語る上で一番有名だと思う。
実はこの人の父親も南朝天皇を語り時の明治政府に二度も承認を求めた
しかし認められず戦後の混乱期にGHQのマッカーサー元帥にも懇願し
米誌ライフなどで大題的に取り上げられた。
天皇裕仁は戦争の全責任をとって退位せよと昭和天皇を相手取り裁判を起こしたが
天皇は裁判で裁けないと却下されたりひそかに第118代大延天皇として即位したりした。
晩年には元公爵や元海軍大将などを立会人として法皇にもなったが
最晩年は東京の侍従のアパートにひそかに暮らしすい臓がんで死去。
訃報は海外にも発信されたが報じるメディアは皆無だったとか

6 :日本@名無史さん:04/02/08 07:30
作り話厨は市ね

7 :日本@名無史さん:04/02/08 09:49
市ねとか言われてるよw

8 :日本@名無史さん:04/02/08 13:46
>>6
あらあら日本史板の住人のくせに知らんのかw

9 :日本@名無史さん:04/02/08 13:49
これでも見とけドアフォ
http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/50nenn29.html

10 :日本@名無史さん:04/02/08 14:38
璽光尊
1903〜1984 享年81歳

この人は自称天皇というよりも、戦後新たに天皇宣言した人である。
昭和21年に人間宣言した昭和天皇から天照大神が去って自分の身体に
乗り移ったとしてこの年を霊寿元年と改元もしている。
翌年一月になると、15日に東京横浜方面に天変地異が起こると予言し
噂が広まるにつれて、気象庁や警察に問い合わせが殺到した。
さらに献上品をした信者には、世の変革後に流通すると言って自前の紙幣まで
作って渡したという。
信者の中には力士の双葉山という人物もいて、石川県警が璽光尊に出頭命令を
出すと東京で今夜7時から大地震と大津波が起きたと発表。
県警はそのまま璽光尊の本部を包囲し璽光尊らを拘束。
一緒に立てこもっていた双葉山も乱闘を演じたが逮捕、その後璽光尊は
精神鑑定で妄想癖と診断その後不起訴となり、各地を転々とし1984年にその生涯を閉じた。

11 :日本@名無史さん:04/02/08 15:04
大室天皇
1904〜1996 享年92歳

この人物の主張は、明治天皇は北朝孝明帝の皇胤ではなく
すりかえられた南朝系の皇子だったということである。
大室家の家譜によれば、第113代東山天皇から5代の正良親王の皇子
光良親王が吉野から今の山口県に落ち延びて、大室家を名乗りその末裔だという。
その後明治維新の際に、大室天皇の祖父の兄にあたる大室寅之助という人物が
皇位を継ぐにふさわしい南朝の皇胤とされ、長州藩に擁立されて本物と入れ替えられて
即位したという。また第二騎兵隊の屯所からかの伊藤博文がほぼ毎日大室家へ訪れたとか、
尊攘派の公卿らが京都から長州へ脱走した時に、大室家に寄宿して寅之助を養育していたという言い伝えもある。


12 :日本@名無史さん:04/02/08 15:26
こんなんとか
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/large/4794704526.jpg
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/large/4043556039.jpg

13 :日本@名無史さん:04/02/08 15:49
橘 天敬(画家)
1906〜1984 享年77歳

炭鉱夫の息子として生まれたが明治帝の御落胤と称して、証拠品の御衣と宮中太刀があったと主張。
元皇族で元首相の東久邇宮稔彦に取り入り、耀禅宮義仁や小松中宮長仁などと皇族風の改名を繰り返し
さらに明治天皇の生母の実家中川家の養子と称して真言宗国分寺派から実体のない小松院天敬法親王の称号を
もらい得意になっていたという。

14 :日本@名無史さん:04/02/08 15:59
三浦天皇
1904〜1971 享年67歳

三浦天皇(三浦芳聖・みうらよしまさ)は、肉体的には南朝長慶天皇系の後胤(こういん・天皇の正室の子の意)、
霊的には後醍醐天皇の第一皇子尊良(たかなが)親王の生まれ代わりを自称。
そして体の中にはスメラミコトの神霊が入っている、というつもりだった。
愛知県豊川市で「神風串呂(かんろ)講究会」を主宰。
全盛期(昭和30年代)には豊橋、岡崎、半田、島田など、10数カ所に道場を持ち、200人ほどの門弟を抱えていた。
神風串呂とは、地図の上に糸を張り、糸に沿った地名から、いろんなことを予言するものらしい。
父の没後、遺言通り家の蔵の瓶を開けると、そこには『三浦皇統家系譜』が。
これが、彼の思いこみ人生のスタートである。
そののち、宮内庁の役人に皇位を要求しに行き、(やっと)自分の間違いに気づいた彼は、
今度は近衛文麿のところへ行った。
第二次大戦が始まり、かなり困っている文麿に、
「遷都しなければ大変なことになる」と神示を伝えに行ったが、
既に大変なことになっていた文麿はそんなこと言われても・・・といった気持だった。
戦後も「再宣戦布告」を勧めたり、昭和天皇がタヌキにとりつかれていると言ったり。
「皇居を移さない限りタヌキは祟る。移せば天皇家は世界人類を救済できる真の天皇家になれる!!」
そんな彼の話を聞いてくれる人はやっぱり現れなかった。
・・・祟るのがタヌキでなかったら、聞いてもらえたかもしれないのに。

引用
http://kumism.boo.jp/history/archives/000079.html

15 :日本@名無史さん:04/02/08 16:06
とりあえずこれを読まなきゃ始まらないだろ
http://product.esbooks.co.jp/product/keyword/keyword?accd=30879845


16 :日本@名無史さん:04/02/08 16:09


17 :日本@名無史さん:04/02/08 18:40
アメリカ皇帝ノートン1世みたいな奴か。

18 :日本@名無史さん:04/02/08 19:26
工藤天皇
?〜? ?歳(少なくとも56歳以上か?)

生年月日とかわからなかったんでスマソ。
主に1970年代に活動していたようである。主張としては、明治帝直系のひ孫だそうだ。
明治帝が明治41年に、長野県上田市を行幸した際の御落胤が彼の祖父にあたるらしい。
彼はソフト帽に黒のダブル、白い手袋に現金とマッチ箱大の金塊を入れたアタッシュケース、
という格好で勤務先の印刷会社への道を闊歩していたそうで、皇居内の賢所という場所で
昭和天皇と謁見した際に明仁(今上天皇)をよろしくと言われ、それに対し朕は即位するつもりはない、と
言って断ったと自慢したそうである。ちなみに現職の天皇がこの賢所で人と会うことまずないらしい。
さらには20年後に56歳で思想界の王者になり、富士山麓に大宮殿を建て100歳で世界の、しいては
108歳で宇宙の指導者になると予言して得意になっていたという話もある。

19 :日本@名無史さん:04/02/08 19:43
フォフォ、良スレですな。

20 :日本@名無史さん:04/02/08 19:48
平将門

21 :日本@名無史さん:04/02/08 20:31
堀川辰吉郎
?〜? ?歳(もう氏んでいると思われ)

これまた年齢不詳でスマソ。漏れの調査不足でして…
この御仁は明治帝と側室の千種任子との間に皇胤と主張している。
彼の実の娘であり太陽の会主催、国際問題評論家の中丸薫氏は堀川は大正天皇との皇位争奪に破れ、
皇籍も与えられず井上馨に身柄を託されたという。その後右翼の遠山満に預けられて孫文の革命を助け、
サンフランシスコ講和条約の裏の調整役を務めたと主張する。

中丸薫氏のプロフィール
http://www.taiyonokai.co.jp/profile.html

中丸薫氏の活動の歩み
http://www.taiyonokai.co.jp/ayumi.html

中丸薫氏が大室天皇を肯定か?
http://www.infact-j.com/komento.htm


22 :日本@名無史さん:04/02/08 21:31
平将門新皇
903?〜940 享年37?歳

彼は言わずと知れた有名人であり、自称天皇と言うより新皇を名乗ったと言った方がいいかもしれない。
彼は代50代桓武天皇の実の孫にあたり、父は鎮守府将軍良持である。
若いころは京で摂政藤原忠平に仕えていたが、父の急死で帰国。
父の跡を継いだが、田畑の争いなどで叔父の平良兼と対立、源護との争いでは伯父の国香を死なせてしまう。
源護の告発により、京に呼ばれ罪を問われたが恩赦で帰国できた。しかし、良兼の攻撃を受け再戦するハメになる。
良兼を追い詰めた将門は勢いに乗り常陸国守藤原維幾を捕らえて、官印と官庁の倉庫の鍵を奪った。
権守興世王の煽動もあり、下野、上野の国府を押さえついには八幡大菩薩の神託を受け、新皇を名乗るに至った。
今昔物語集という書物には、ある人物が八幡大菩薩の使者と偽って、将門に父祖の功労によって位を受けるべき子
将門に位を授けると語ったと記している。桓武帝は平姓賜っており、その孫にあたる将門平氏は八幡大菩薩(第15代応神天皇)の末裔になるという。
その神託に喜んだ将門は猿島郡石井郷を皇居とし、近辺の者を住んでいた坂東地区の国司に任命した。
この行動を時の朝廷は謀反と受け止め、追討軍が組織され派遣された。そして940年、戦闘中将門は額に矢を受け倒れることになる。



23 :日本@名無史さん:04/02/08 21:56
ぐは…だんだんネタ尽きてきた

24 :日本@名無史さん:04/02/08 22:34
ここで話題になっているので、エイリアン2を見ています。
もうすぐで、限定生産のDVDボックスも販売なので、買ってきて
見てみます。





25 :日本@名無史さん:04/02/08 22:35
平将門がそうなら自天王もそうか?

26 :日本@名無史さん:04/02/08 22:45
お〜とこには〜、ホモの〜せ〜かいがあ〜る♪


27 :日本@名無史さん:04/02/08 22:48
東武皇帝
1847〜1895 享年47歳

名前は北白川宮能久親王。伏見宮邦家親王の第9子として生まれその翌年第120代仁孝天皇の養子になる。
彼は1868年に徳川慶喜から朝廷に助命を嘆願してくれるよう頼まれ、京へ向かったがその途中で参内を拒絶される。
その後寛永寺に身を寄せた後白石を拠点に奥羽越列藩同盟が成立、江戸では上野戦争が起こる。
間一髪のところを脱出した親王は、軍艦で奥羽へ向かう。列藩同盟は、親王を帝と仰ぎ親王は東武皇帝として即位する。
そして1868年を大政元年と定めた。その様子を当時のニューヨークタイムスは日本の東北に新帝が立ち、明治帝と並立する状況になったと報じた。
ちなみに当時の東北には明治新政府と変わらない役職があり、あたかも新国家が成立したようだったという話も残っている。
東武皇帝が即位すると、時の仙台藩主は皇帝を手厚く城へ迎えた。ところが秋田、弘前藩が相次いで同盟から脱退。
さらに薩長軍が仙台藩を降伏させたことにより、皇帝は謹慎の身になるが、明治2年に許され再び親王に復帰する。
その後ドイツに留学し、帰国後は帝国陸軍に入隊。第六師団長などの職を経て、1895年近衛師団長になり日清戦争へ出征。
同年に台南で肺炎により病死した。遺体には陸軍大将の乃木希典などが別れを告げたという。
なお死後に陸軍大将に昇進している。


28 :日本@名無史さん:04/02/08 22:58
>>25
自天王は自称じゃない。あのころは三種の神器は南朝にあったので正統は南朝であった。
自天王が殺されて神器が取り返されたのでそのまま南北朝が合一してその後南朝は自天王で途絶えたので
再び北朝が皇統に戻った

29 :日本@名無史さん:04/02/08 23:00
3種の神器自体、少なくとも安徳の時にはなくなっているので、その議論は不毛では

30 :日本@名無史さん:04/02/08 23:02
★★矢沢永吉の成り上がり 性器が好きです☆☆

31 :日本@名無史さん:04/02/08 23:05
>>29
いや壇ノ浦の時に無くなったのは剣のみで無くなった剣は朝廷の宝物の中からいい加減に選んだのが今の剣だとされている。


32 :日本@名無史さん:04/02/08 23:25
ばぁちゃん、おれおれっ!天皇だよ!

33 :日本@名無史さん:04/02/08 23:30
>31
それは「草薙」が無くなったので、武力が武士に奪われたということを裏付ける
ための作り話であって、実際にはそれだけなくなるほうが不自然。
(当然いっしょに持っていたはず)

でもまあ、全部無いんです、じゃあその後の天皇の存在根拠にかかわるから
「他はあることにした」だけじゃないの?


34 :日本@名無史さん:04/02/08 23:59
武士によって奪われたとされるのは剣だけだよ

35 :日本@名無史さん:04/02/09 00:03
だから「されてる」だけだろう?


36 :日本@名無史さん:04/02/09 00:05
北畠親房だっけか?が書いてる奴が論拠になってるのだと思うが、
なぜ幕府が出来たかということの理論付け(理論といえるレベルの話でもない)の
ために作った俗説にすぎない。

普通に考えると、壇ノ浦の時点で全部海の藻屑。


37 :日本@名無史さん:04/02/09 00:06
>>35
どういうこと?

38 :日本@名無史さん:04/02/09 00:09
>37
そういうことにしておかないと、その後の天皇が王権を継承する論拠がなくなるから
「そういうこととされている」だけっちゅうこと


39 :日本@名無史さん:04/02/09 00:13
三種の神器喪失についてはいろいろ説があるからなんとも言えない。
まあ言えるのは朝廷がこれって言えば木の枝さえも宝剣になるから

40 :日本@名無史さん:04/02/09 00:16
鏡は箱に入って浮かんでたのを源氏方が回収したとか。

41 :日本@名無史さん:04/02/09 00:16
だから「正統」云々できるものは南北朝の時代にはないっちゅうことですよ。

42 :日本@名無史さん:04/02/09 00:16
三種の珍器

珍走 ガテン ハゲ

43 :日本@名無史さん:04/02/09 00:19
いや南北朝時代にどっちが正統かではたしかに神器が意味を持っていたよ。
現に自天王はそれを奪いにきた者に殺されてる

44 :日本@名無史さん:04/02/09 00:21
まあそういう意味ではそうともいえるけど

壊して別のものを神器と言い張っても別に問題はなさそうな感じ。


45 :日本@名無史さん:04/02/09 00:21
例えば卑弥呼が天照大御神(の元となった巫女)だという事が立証されて、
何処ぞの古墳から卑弥呼のミイラが発見され、
そのミトコンドリアDNAを調べてみたらオレの祖先である事が証明されたら
オレも天皇を名乗っていいですか?

46 :日本@名無史さん:04/02/09 00:24
ミトコンは母系で伝達だから、駄目。

47 :日本@名無史さん:04/02/09 00:24
女系はダメじゃね?

48 :日本@名無史さん:04/02/09 00:24
45へ

誅殺

49 :日本@名無史さん:04/02/09 00:25
これだけ日本史板で反応が早いのもめずらしいw

50 :日本@名無史さん:04/02/09 00:25
ちなみにあの時代北朝にも宝剣があったがそれは後醍醐帝が南朝作る時に北朝をだますために自身が作ったニセモノだし

51 :日本@名無史さん:04/02/09 00:26
>>46
>>47
愛子が皇太子になれば問題ない!

52 :日本@名無史さん:04/02/09 01:01
道鏡法王
?〜772 ?歳

道鏡は法相宗の義淵僧正の門流で、禅行で評判になり禅師となる。また密教行者でもあったらしい
道鏡は時の女帝孝謙上皇の看病をしたことにより寵愛を受けるようになり大臣禅師に昇格する。
孝謙はその後称徳天皇に再度即位する。その後道鏡は瞬く間に出世し756年には太政大臣、翌年には法王になった。
そしてついに皇位に目を付ける。大宰主神阿曾麻呂は道鏡に媚を売り、八幡神の託宣と偽り道鏡が皇位に就けば世は平定するだろうと語った。
これを受けさすがの称徳帝も道鏡の姿勢が気になったのか臣下の者に、夢で八幡の神が告げたいことがあると聞いたので行って来るように
と命令した。それお聞いた道鏡はその臣下が出立する日に私の即位のことだと思う、よい返事を持ってくれば高い地位を用意すると告げたという。
しかし臣下が聞いた託宣は、皇位を継ぐのは天皇家の血を引く者でなければならないということだったという。
これで道鏡の皇位への野望は潰えた。後日談として称徳帝は他界する二ヶ月前に道鏡一族から軍事権の大半を取り上げ
他界した後は、白壁王(のちの光仁天皇)に謀反のかどで下野国薬師寺別当に左遷され、その1年7ヵ月後に生涯を閉じる。

53 :日本@名無史さん:04/02/09 03:43
外村天皇

主に1950年代に活動。街頭で昭和天皇に退位を要求し、自己の即位を求める演説をした。
職業はブローカーらしい。

54 :日本@名無史さん:04/02/09 11:40
語り尽くしてしまいましたか?

55 :日本@名無史さん:04/02/09 11:51
なんか感想ある?

56 :日本@名無史さん:04/02/09 12:06
熊澤天皇は戦前に右翼に担がれてクーデターを起こしかけている

57 :日本@名無史さん:04/02/09 12:15
戦後「熊沢天皇」を称した熊沢家に対し、明治時代に、政府から
公爵の爵位を贈りたいとの話しがあったというのは
本当なの?

58 :日本@名無史さん:04/02/09 12:18
>>124
どうやるの?
くちばしでチンポの先っちょをツンツンですか?

59 :日本@名無史さん:04/02/09 12:20
ただのデマ。明治には父親が政府に懇願していたがまったく相手にされなかった

60 :日本@名無史さん:04/02/09 12:21
>>58
誤爆でし。申し訳ございません。
http://news4.2ch.net/test/read.cgi/news/1076293934/

61 :日本@名無史さん:04/02/09 12:29
芦原天皇とかいなかったか?
ガチの精神病だから取り上げないのか?

62 :日本@名無史さん:04/02/09 12:33
天理教(宗教)

もはや自称天皇ですらないけど、この宗教は幕末に中山みきを開祖として生まれており
主神の天理王命によると、記紀神話とは異なる創造神話を持ち、人間は神の子でみな平等であると教えていた。
そのため国家神道が確立するころになると、政府から度々弾圧されるようになる。ちなみに教祖の中山みきは、18回検挙されている。
みきの没後、政府との妥協として明治教典を作り、ようやく公認される。しかし今現在はみきの教え復活させ、神道の宗派から脱している。

63 :日本@名無史さん:04/02/09 12:36
>>61
ごめん。聞いたことない

64 :日本@名無史さん:04/02/09 12:46
>>61
10年前、淡路島の選挙で自称「明治天皇の孫」が精神病院内から立候補している。
この件については、根本敬著「人生解毒波止場」を参照。

65 :日本@名無史さん:04/02/09 12:52
>>64
詳細キボンヌ

66 :日本@名無史さん:04/02/09 12:55


67 :日本@名無史さん:04/02/09 22:58
精神病患者も立候補できるのか?

68 :日本@名無史さん:04/02/10 00:19
自称痴漢

69 :日本@名無史さん:04/02/10 19:08
く…

70 :日本@名無史さん:04/02/10 19:27
今後、天皇を自称する人でるんでしょうかね?
皇室自体、静かに無視されて行くんじゃないですか。



71 :日本@名無史さん:04/02/10 19:32
蘇我馬子(一部では蘇我天皇とか)
550?〜626 ?歳

蘇我馬子の地盤は父の蘇我稲目の時代に築かれた。
文献にはすでに宣化、欽明帝の時代には大臣として稲目の名が載っている。
馬子もまた、用明、祟峻、推古の3帝の外祖父として権勢をふるう。
馬子が大臣として登場するのは、第30代敏達天皇の時代からで572年4月3日の天皇即位の日に大臣に就任している。
その権威は帝を超え、聖徳太子と同じく仏教に帰依していた。それゆえ排仏主義者の物部守屋と敵対していた。
馬子は、守屋が帝に立てようとしていた穴穂部皇子を殺し、穴穂部と仲がいい宅部皇子も殺害する。
そして宿敵である守屋を倒すと、敵がいなくなりついには天皇の命さえも軽く扱った。
ある日、祟峻天皇が献上されてきた猪を見ていつかkの猪のように、憎いと思う者を殺したいと語ったことからこの帝は馬子に殺されてしまう。
日本書紀には推古帝が、馬子が夜に何か言えば夜のうちに。朝何か言えば朝のうちになんでも聞き入れてきたと語ったとされている。


72 :日本@名無史さん:04/02/10 19:36
なんだかんだ言っても日本人は権威に弱いw

73 :日本@名無史さん:04/02/10 23:25
歴史をたどると、高麗川(現・日高町)に入植した朝鮮人の集団が、
さらに武蔵野各地に転住し、一つは大宮周辺、そしてもう一つの集団が志木郷に入ったのだそうです。
その中に金子一族もいて、鎌倉時代の関東武士団の中の有力氏族として「金子氏」の名前が出てきます。
道理で関東武士は、騎馬はお手の物。火が広がりすぎないように野火止して焼き畑を開墾し、作物を作り、
馬を飼っていたらしい。(ヤギを飼う心情もその名残り?)


74 :日本@名無史さん:04/02/10 23:31
佐藤天皇

日本人は全員皇族と主張。自分の名が、公職追放リスト名簿から漏れていることを遺憾として
当局に横文字で具申したらしい。主に岡山県で戦後直後に活動。

75 :日本@名無史さん:04/02/10 23:42
草薙の剣は、日本武尊が熱田神宮に忘れていってから、ずっとその
ままになっている。それ以降の草薙の剣は全てレプリカ。

76 :日本@名無史さん:04/02/10 23:43
なんかだだの報告スレになっちまったな

77 :日本@名無史さん:04/02/10 23:48
おもしれぇ!!


78 :日本@名無史さん:04/02/10 23:48
その草薙の剣は後に盗まれてますがね。

盗んだヤシが祟りにあって、件を”放り出して”逃げ出したのが
今の大阪市放出と言われている。

それが本物と言う根拠はまるで無し。

79 :日本@名無史さん:04/02/10 23:53
>>78
それって何時ごろの話っすか?

80 :日本@名無史さん:04/02/11 00:04
>>70
皇室が無くなったら絶対出てくる

81 :日本@名無史さん:04/02/11 01:38
http://members.at.infoseek.co.jp/koreawatcher/docs/emperor.htm
ワロタ

82 :日本@名無史さん:04/02/12 00:15
age

83 :日本@名無史さん:04/02/12 00:27
植木天皇

この人は観音像から南朝の皇胤と啓示を受けたと主張。昭和27年に今上天皇よりも80日早く立太子礼を行う。
世界の10代の少年少女と協力して世界平和を守るという世界あじろな同盟を発足させている。

84 :日本@名無史さん:04/02/12 02:04
黒澤天皇

本名:明。
戦後もっとも有名な天皇…

85 :日本@名無史さん:04/02/12 23:04
>>84
ワロタw

86 :日本@名無史さん:04/02/12 23:09
>>81
結構藁えるなそれ。韓国105代天皇かw

87 :日本@名無史さん:04/02/14 11:59
すべての天皇
 は 自 称 天 皇

88 :日本@名無史さん:04/02/14 18:21
>>87
日本の天皇は、百済王から奉戴されたので自称では無い。

89 :日本@名無史さん:04/02/14 18:42
歴史をたどると、高麗川(現・日高町)に入植した朝鮮人の集団が、
さらに武蔵野各地に転住し、一つは大宮周辺、そしてもう一つの集団が志木郷に入ったのだそうです。
その中に金子一族もいて、鎌倉時代の関東武士団の中の有力氏族として「金子氏」の名前が出てきます。
道理で関東武士は、騎馬はお手の物。火が広がりすぎないように野火止して焼き畑を開墾し、作物を作り、
馬を飼っていたらしい。(ヤギを飼う心情もその名残り?)


90 :日本@名無史さん:04/02/14 20:14
自称天皇は性格には自称ではないかも、
何故なら自称天皇自信以外に、
その人物を一人でも天皇と認めた人物がいるなら、
すでに他称天皇と言えるからね。

まあ重箱の隅つつきだが。

91 :日本@名無史さん:04/02/14 20:15
性格は正確の間違い

92 :日本@名無史さん:04/02/14 21:49
自信は自身の間違い

93 :日本@名無史さん:04/02/24 13:19
ふ〜ん・・・

94 :日本@名無史さん:04/02/28 23:12
これだけ日本史板で反応が早いのもめずらしいw




95 :日本@名無史さん:04/03/14 22:24
西朝伝説って、どこで伝わっているの?

96 :日本@名無史さん:04/03/15 00:35
>>1

97 :日本@名無史さん:04/03/15 12:19
戦後、我こそ南朝の正統であると名乗りをあげた熊沢天皇こと、熊沢寛道氏の出現と時を同じくして、昭和21年以来ジャーナリズムに騒がれた安徳天皇第33代の子孫、長濱豊彦氏の名が大きく浮き上がってきた。
長濱氏は硫黄島に住み代々硫黄大権現宮の太夫を勤めた家柄である。豊彦氏は熊沢天皇のように、自分が天皇に代わろうなどという野心は少しも持っていないが、正しい史実は史実として、後世に残したいものだという悲願を抱いている。
世の多くの人々が、安徳帝は源平の最後の戦い、壇ノ浦の合戦で、二位の尼に抱かれて海底深く沈まれたと信じている。
御陵も壇ノ浦にあり、赤間宮が帝をお祭りした社であり、史実もはっきりしているのに、今更、硫黄島の安徳帝などとマユツバモノを...という気があることと思う。
松永守道氏もこの島に下る以前はそう思っていたが、長濱氏の古文書、権現宮の秘宝、墓碑などを調査するうちに、その多さ、その古さから、これはタダモノではないとおもうようになった。
日本国中に平家落人伝説を持つところが211箇所あり、そのうち安徳帝ゆかりの地が18箇所、その18箇所のうち、安徳帝終焉の地と伝える所が9箇所もある。
こんなにも平家関係の土地が多いのは本当に平家残党の潜入した所もあろうし、またその部下の末に連なる人が入ったためでもあるが、中には近世初頭頃から世が治まるにつれ、
自分の先祖の格を高く保ちたいがために、折から山村漁村にまでも入り込んできた琵琶法師の平家物語や山伏の平家説話などを、上手く利用して平家落人になりすました者もあったからであろう。
しかし、これらの多くは伝説のみで、遺物記録に貧しいのであるが、硫黄島は資料も豊富なものである。

98 :97:04/03/15 12:49
昭和13年、東京の教育家永原鉦作氏は、硫黄島の資料に驚き、宮内省へ国史改正の請願書を出し、南島に生きた安徳帝の事蹟を顕彰しようとしたが、時代が時代だけに取り上げられなかった。
戦後、昭和40年に牛根の永井彦熊氏は「落日後の平家」で、安徳帝と平家一門の硫黄島南下にふれ、昭和41年には神奈川県葉山在住の神河雅敏氏が「平家一門の秘録とその探訪記」で、硫黄島の安徳帝にふれている。
四国の屋島壇の浦で、元暦2年2月19日に義経に敗れた平家は、安徳天皇と三種の神器を乗せた寮の船を真ん中に、西の方長門壇の浦をさして落ちていったが、途中、伊予灘に浮かぶ八島に船がかりした。
古来、壇の浦が四国と長門の両方にあるため、これを混同したりヤシマが四国屋島と伊予灘の八島と混同して書かれたりしているが、今ここではっきり区別して進めたい。
八島は山口県熊毛郡上之関町八島で、ここの八島神社々記に「八島と申す地名は、小島のかず八つあり、故に八島とは名附けて申し伝え候。上の関より海上五里隔たり、南に当たる海島にて、
宜しき土地なり。此の島に与崎と申す出崎ありて、山高く聳え、其の風景筆も及び難く候へば、安徳天皇建礼門院、二位尼、其余共奉の御一統、赤間の関へ御通船の節、天皇彼の沖なる島は如何なる島かと、
御尋ねましまし給いければ、八島と言えば、いとなつかしきことかな、よい崎と宜ひましませば、それより此の古浦の島崎を、与崎と号し来候と申仕候」とある。
これによってみるに、平家の軍船は室津と八島の間に船がかりしたものと思われる。これから叙述を進めるうえで、一等資料として「硫黄大権現宮御本縁」や「三所大権宮鎮座本記」にも、
讃岐八島壇浦とか、讃岐国八島壇浦と書かれているので、筆者の大納言時房、中納言経正も戦乱のあわただしさに屋島と八島を取り違えたものであろうか。

99 :97:04/03/15 13:43
八島付近に船がかりした平家は、先の屋島敗戦による士気の沈滞を鼓舞しようとして、3月7日、各将の位を一階級ずつ進級させ、これからの陣容のたて直しを評議した。
最高指揮官として新大納言となった知盛が当たり、以下諸武将の手配を次のように定めている。
大将名 資盛 位階 正三位、内大臣、左大将、征夷将軍 方向 安徳天皇を奉じ日向辺を志す(後、硫黄島に到着)
部下部将、人員、船
行幸共奉の人 大納言時房、中納言経正、参議業盛、淡路守清房、豊前守知邦、美作守宗親、左大弁忠綱、蔵人左衛門大尉通正、左ノ内侍、狭野内侍
侍大将 越中次郎兵衛尉景光、上総五郎兵衛尉盛継、日高阿波前司吉房、福原相模守季長(後、肥後と号す)
人員 資盛以下三百余人、雑兵一千六十余人
船 寮の御船以下七十余艘 他に海路案内人として国人の渡辺二郎左衛門尉行吉、同行
大将名 能宗 階位 新従三位、中将、征夷将軍、副将軍 方向 安徳帝の代理総君を奉じ筑紫・長州辺に出勤(後・長門壇の浦に潰滅)
配下部将、人員、船
正二位大納言時忠、従三位宰相季房、四位左中将清経、左兵衛督国盛、丹後守清邦、従五位上通衡、正五位上左馬頭行盛(後、生きて建仁年中邪梛国(?)に下向)、正五位下増盛(後、法師となる)、白川内侍、右衛門佐局
櫛匣内侍 他に海路案内人として 瀬丘難波一類、松浦判官重賢
人員 主従五百余人 雑兵九百八十余人



100 :97:04/03/15 14:09
大将名 知盛 階位 新大納言、征夷大将軍 方向 八島在陣本体(後、長門壇の浦に潰滅)
配下部将、人員、船
従一位太政大臣兼内大臣宗盛、正三位右衛門督清宗、正五位上伊賀守知忠、従五位上尾張守清貞、
従四位蔵人大夫良衡、従二位前大納言教盛、従五位上能登守教経、正三位前参議経盛、
中納言律師忠快、従四位下左少将有盛、正五位上丹後守修理大夫忠房、皇后宮亮長盛、正親町局、
桐壷内侍
侍大将 上総七兵衛尉景清、福原和泉守盛兼、福原新蔵人兼国、山田判官業光、正右衛門尉正綱、
主馬介業房、狩野新蔵人行茂
他に二位尼 建礼門院

これによってみると、安徳帝を奉じた資盛は、日向灘方向に転陣して帝の安泰をはかろうとしていたことがわかり、実際に長門壇の浦の決戦に行ったのは能宗の隊と知盛の本隊であったのである。能宗は顔かたちが資盛とそっくりであったという。
それで、従五位であった彼を3月7日の進級には、一躍正四位上と二階級特進をさせて、資盛の身代わりとしたのである。平家でも上位の人しか資盛が帝を奉じて日向灘を南下したことは知らなかった。
下士雑兵たちは、あくまで資盛が帝を奉じて長門壇の浦の戦いに参加し、指揮を執っていると思い込んでいた。ましてや源氏方は、一層その真実を知らず、資盛と帝が壇の浦平家船団にいることを信じていたのである。
この盲点をついて資盛は帝を奉じ日向灘から硫黄島に足跡をしるすこととなった。ここがわからなかったために、古来の日本史は誤りを犯し、言仁親王を壇の浦に入水させているのである。
では長門壇の浦で死んだ安徳天皇は誰であったかという疑問が残る。壇の浦の決戦及び安徳帝の入水は3月24日のことである。総大将知盛は本当の安徳帝言仁親王を資盛に託し、南下させる計画と同時に帝の身代わりを定め、
これを能宗に奉じさせた。この身代わりを総君(つなぎみ)という。能宗は資盛に、総君は安徳帝になり代わって、平家も源氏もあざむき壇の浦に消えたのである。
長濱系図に総君に関する記載がある。それによると、総君は中納言時房の娘で、当時7歳であった。安徳帝の身代わりとするには、男としなければならず、かつは、平家一門の総家となっていた宗盛も家族でなければ家格が低すぎるので、
時房の娘を男とし、清宗の養子の形にした。



101 :日本@名無史さん:04/03/15 19:51
日本史板では珍しいほど荒れてない天スレage

102 :97:04/03/16 12:47
島津家第27代の太守、斉興が硫黄大権現に或る箱を納めた。開けると目がつぶれるといい、絶対に他見を許さぬ箱であって、長濱家の当主も決して開けなかったものである。では、どうして島津家から長濱家にこのような箱が渡されたのか。
長濱家の中興の祖といわれる太郎左衛門吉延は、文禄慶長の2度の征韓の役に従軍し、義弘の朝鮮退陣の折、敵中にさらされ危険きわまりなかった義弘を、奮迅の末無事助け出し、自分も深手を負いながら忠節の限りをつくしたのである。
義弘は帰国後、吉延に望みの賞をきいたところ、ただ硫黄大権現の修甫のことだけを願った。義弘は早速、願いの通り修繕してやり、鎧兜や太刀などを奉納した。以降、硫黄島の大権現は島津家から修理の費用を出す修甫所となってきたのである。
文政10年(1827)、第5回目の修甫がなされることになり、3月に御修甫見分役として寺社方御取次小幡平八郎、寺社奉行附書役上村清蔵、外に大工棟梁一人が島に渡った。
時の太夫、長濱家の当主は長濱求馬資永といい、元祖吉資以来29代目であった。島津家派遣の一行は権現宮の内陣へ参り、由緒など糺し記録をとった。そこで今までひたかくしにしてきた、
元暦二年五月朔月安徳天皇が当島の御還幸の秘書一切を差し出したのである。そして遠前山にある御陵などの由緒についても残らず求馬が申し出たので、小幡らは事の意外さ、重大さにただ驚くばかりであった。
一応記録を終えた一行は、6月に硫黄島を出帆、直ちに藩の記録方に事の次第を報告した。そこで藩では、また8月に寺社御方并記録奉行添役の五代直左衛門を硫黄島に派遣、五代は外に書役や絵師、先に渡島した小幡、上村、
御兵具方足軽星原十太郎と共に渡海してきた。この時の様子が記されている。

来真三種権現宮之御由緒ツブサニ御記シ有之候間、安徳天皇当島長浜浦ヘ御潜幸御一生之間当島ヘ御座被遊候趣申出候、
尤長濱家系図之写差出候、天皇御由緒記之儀モ差出候、天皇御宸筆ト申伝候物并天皇当島ヘ皇居御経営黒木ノ御所ヘ御
移礼御儀式ノ御画像其外家蔵ノ宝刀、資盛ノ佩刀天光并新中納言知盛卿懐中鏡ト申伝ヘ候品々ハ寺社御方御役々ヘ差出
候処御受取且又権現宮御神体御神鏡等品々御受取同十二月御帰帆有之候

103 :97:04/03/16 13:29
こうして事細かに調査記録した五代等は、帰藩の上、詳しく藩主斉興に報告した。硫黄大権現の神体や神刀、古鏡などは皆、斉興の前にひろげられ、藩の学者たちはこれが真偽について研究し、皆本物であることを斉興に申し出た。
そこで斉興は、翌文政11年9月小幡平八郎、上村清蔵、兵具方足軽溝口助太郎らに命じ、去年島から持参した神体、神鏡などを元のとおり島の権現宮へ奉納させた。
その他、神前用祭器類もすべて付けて与えた。しかしこの時、中御殿に祭ってあった神鏡八咫御鏡は厳重に桐の箱に幾重にも納められ、絶対に中を見てはならぬ、見ると目がつぶれると堅い申しつけで返納された。
長濱家では申し付けとおり、直の中御殿に神体として奉納し、以降決して中を見ようとせず、開けずの箱として丁重にあつかったのである。
斉興には、この中身がわかっていた。否、彼の命令で実はすり替えさせたのである。硫黄島のような離島に、三種の神器の一つである八咫御鏡を奉斎しておくことは不敬に当たるとし、
本物は鶴丸城に奉安し、代わりの漢鏡を模した、新しい白銅鏡を島に送り届けさせた。
このすり替えが島の者にわかると面倒と思い、お上の威令で開けずの箱とし、代わりの粗悪品を届けたのであるが、
その鏡だけは申し訳ないと思ったものか、りっぱな兜をそえて奉納した。これらの返納や奉納の品は、藩船権現丸に丸に十の字の島津紋をうった幕を張りめぐらし、島に到着した。
兜は鯱頭、五枚錣で一部塗りのはげたところもあるが、吹返しには島津家の紋が打ってあり、今も権現宮本殿に格納されてある。

兜一頭
製竜頭魚身魚虎之形
右者所思以納干硫黄島熊野三所権現廟
文政十年丁亥八月朔日
三州兼琉球国太守
従四位上 右近衛中将 源朝臣斉興

昭和8年11月、学校教育研究会の講師として大島に渡島していた東京の教育家永原鉦作氏は、その帰途、硫黄島に長濱家を訪ね、安徳天皇南遷の真否を調査した。
そして記録遺物の一切を見せてもらって、帝の南遷が真実であることを信じた。彼は有志をつのり、昭和13年7月30日に宮内省を通じて天皇陛下に上奏文を捧げたのである。
その趣旨は、安徳天皇入水の歴史を改訂し、硫黄島の古陵を検討されたい。さもなければ、国体、民情に反し、教育を誤るおそれがあるというのであったが、
これは抹殺されてしまった。

104 :日本@名無史さん:04/03/17 06:34
age

105 :日本@名無史さん:04/03/17 06:35
age

106 :97:04/03/17 14:35
さて、開けずの箱のことを知った永原鉦作氏は、今この場で目がつぶれてもよいから是非見せていただきたいと、豊彦氏の父、長濱権十郎に願った。
権十郎氏もそれならばと、自分も開けたことのなかった箱を開けたのである。三重になった箱の間には真綿が巻いてあり、最後の箱の中に鏡と奉書紙の書付があった。
奉書紙を見た一同はアッと息をのんだ。島津27代斉興が古来の神鏡を府城に安置し、代わりの漢鏡を納めた証書だったのである。

(包紙上書) 源斉興謹誌
(本文)
硫黄権現
第一日御殿神体
一 八咫御鏡 文政丁亥六廿一奉府城匱宝也
        但今此替文政十丁亥後六一奉納漢鏡
霜以寿永乱自讃岐国八嶋 天皇渡御薩摩国琉黄嶋、此時三種神器共被渡其内劒玉者
依神火悉焼亡今宝鏡而巳残之焉、自古至于今文政十丁亥不知惟然其神体奉伺文政十
亥六廿一所无相違三種神器也
今斉興而按之日
(中略)
此度宝鏡末世衆生旡明疑念恐難故文政十丁亥府城奉安置故後年為メ証書如件
必神体勿拝々則両眼悉亡云々

文政丁亥後六月一日
 当家廿有七世従四位上
 左近衛中将 源朝臣斉興
 謹而奉書誌畢
 時于三十有七歳 (花押)


107 :97:04/03/17 15:01
松永守道氏も昭和44年8月、長濱豊彦氏から斉興奉納の鏡を箱から出して見せてもらったが、
文政頃の作と思われる新しい白銅鏡であった。証書には漢鏡としてあるが、文様、鋳造法からみて
漢鏡ではなく、純然たるイ方製鏡である。
また、八咫鏡として記録された鏡の文様は、双鳥瑞雲の漣菜八花鏡であるが、このような形式は
平安時代中期ごろから後期にかけて、我が国で造られた。
内外区の二区にわかれ、外区はやや高く、内外区を分ける境圏はその外面段状または「へ」字状をなしている。
文様は外区に瑞雲や唐草を八ヶ所に配置し、内区は更に四つに区分して、左右は鳳凰を向かい合わせ、
上は瑞雲と唐草、下は漣菜山に鳥を組み合わせている。
この様式は唐鏡から脱化して和鏡に進もうとする中間様式といえる。
長濱氏は戦後、この鏡を返してもらうべく島津家に交渉したが、島津家は知らぬ存ぜぬでこれを拒否、
今日その所在もはっきりしないが、薩摩藩最後の藩主、島津忠義公の数代後の御子孫の御一人が、
現在どのような地位におられるのかを考えれば、在るべくところに在るとも考えられる。
推測の域を越えることはないが........

108 :日本@名無史さん:04/03/30 23:44
age

109 :日本@名無史さん:04/04/04 12:17
あげ

110 :日本@名無史さん:04/04/21 22:59


111 :日本@名無史さん:04/04/30 05:37
age

112 :日本@名無史さん:04/04/30 11:45
だいさくは狙ってませんでしたっけ???

113 :日本@名無史さん:04/04/30 18:47
だいさくって誰?

114 :日本@名無史さん:04/05/01 20:12
>>61
芦原某が自称したのは将軍位じゃなかったっけ?

115 :日本@名無史さん:04/05/02 00:23
あー、そーそー。芦原将軍ってあったなー。
筒井も小説に書いてなかったっけ?

116 :日本@名無史さん:04/05/02 00:30
自天皇

117 :日本@名無史さん:04/05/02 01:37
age

118 :日本@名無史さん:04/05/02 14:05
>17のノートン1世は人気があったらしいね

119 :日本@名無史さん:04/05/04 01:57
そらノートンの発言は理に適うものばかりだったからな

120 :日本@名無史さん:04/05/04 05:44
金田天皇 1933-

球界に君臨した自称天皇。強引我が儘手前味噌など帝王にふさわしい資質の持ち主。
朝鮮の貴人ツヌガアラシトの後裔という説もあるが、どっちかっていうとカドガタツヒト。
神器の一つである「金田式健康棒」は臣民がレプリカを購入できるようになっている。
ttp://www.meikyukai.co.jp/goods/shouhin/toku03.htm

121 :日本@名無史さん:04/05/04 13:07
熊沢天皇については、秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(文春文庫)を参考。

122 :日本@名無史さん:04/05/04 13:51
>>120
禿ワラタ
他の神器は?

123 :日本@名無史さん:04/05/06 05:02
鬼に肉棒

124 :日本@名無史さん:04/05/06 14:52
戦前までは自称天皇は結構いた
精神病棟にも「俺は天皇だ」という人が
いたそうだが、戦後は「俺はマッカーサー」だ
ど転向゙した人がいたそうだ

125 :日本@名無史さん:04/05/06 16:23
 こんにちは。初歩的な質問よろしいでしょうか?
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などはなぜ天皇をやっつけて
自分が日本の王になろうとしなかったのでしょうか?

126 :日本@名無史さん:04/05/06 16:30
やっつけるに値しないからです。

127 :日本@名無史さん:04/05/07 00:31
水島天皇

128 :日本@名無史さん:04/05/07 09:51
>>125
玉だから

129 :日本@名無史さん:04/05/07 10:00
自称天皇は、雅子女帝。


130 :日本@名無史さん:04/05/07 16:17
GWに熊澤天皇の祖、後醍醐天皇の曾孫(?)にあたる信雅王の墓をみつけた。
その墓には「信雅王○○(ここ忘れた)法親王」「熊澤氏始祖」と書いてあり、
右側側面に「後醍醐天皇皇曾孫」と書いてあった

131 :日本@名無史さん:04/05/07 17:50
ちょっと思ったんだけど、三国志の劉備って、自称天皇と同じ類か?

132 :日本@名無史さん:04/05/08 06:08
なぜに?

133 :日本@名無史さん:04/05/08 07:05
>>131
似てるかもね。

134 :日本@名無史さん:04/05/08 07:26
>>130
場所は?

135 :日本@名無史さん:04/05/08 10:10
詳しく書いちゃっていいのかな。
愛知県k市の市内では一番有名なお寺の塔頭の庭の奥

詳しく書いていいならかくけど

136 :日本@名無史さん:04/05/08 12:27
別に個人情報じゃあるまいしいいんでない?

137 :日本@名無史さん:04/05/08 13:55
うんじゃあかくわ

愛知県江南市の曼荼羅寺の奥のほうにある霊鷲院って言うお寺の庭の奥にある五輪塔

たまたまおまつりで庭も開放されていたので散策していたら奥のほうにあった。

戦後に今の熊澤さんが建てたらしく、裏に寄進夫婦の名前もあった。

その近くにご夫婦の墓もある

普段もあいているかどうかはわからない

138 :日本@名無史さん:04/05/08 14:02
熊澤ってヒロミチ天皇のことか?

139 :日本@名無史さん:04/05/16 03:14
信雅王の墓とか位牌って後世に造られたものって聞いたよ

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