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新田と足利 その3

1 :日本@名無史さん:04/03/04 01:25
過去スレ
新田と足利
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1006670909/
新田と足利 その2
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1046780432/

2 :日本@名無史さん:04/03/04 01:26
>>1
乙鰈

3 :日本@名無史さん:04/03/04 09:26
乙あげ

4 :日本@名無史さん:04/03/05 20:48
新田基氏age

5 :日本@名無史さん:04/03/05 23:11
ちんこ

6 :日本@名無史さん:04/03/06 01:04
まんこ

7 :日本@名無史さん:04/03/07 00:49
>>5-6
こいゆうこと書く人の精神構造を教えて下さい。
私見としましては異性、もしくは自分の性器に異常なコンプレックスを
抱いていると思うのですが・・・。

8 :日本@名無史さん:04/03/07 01:57
>>7
アナル

9 :日本@名無史さん:04/03/07 03:01
ちょっと来ないうちにもう3が立ったのか?と驚いて前スレ見たらまだ50近くも残っていた
折角だから新田鬼童丸age


10 :日本@名無史さん:04/03/07 06:29
>>7 は ウンコ


11 :日本@名無史さん:04/03/07 09:53

新田は何で足利にまけたの?


12 :日本@名無史さん:04/03/07 10:22
≫11
新田貞義が女性との別れに無駄な時間を費やした為に負けた。

13 :日本@名無史さん:04/03/07 13:38
貞が先にきてる

14 :日本@名無史さん:04/03/07 13:41
>>12
あなたは高時ですね

15 :日本@名無史さん:04/03/07 14:59
>>14
上手い!
マジで感心した。

16 :日本@名無史さん:04/03/07 17:08
新田義貞は偉大な豪傑。
足利尊氏は自己宣伝と演技のうまい
卑劣漢。

17 :日本@名無史さん:04/03/07 18:07
新田は一族と家臣に恵まれなかった。
尊氏には弟の直義が(後半は敵だったけど)執事の高師直が居た。

18 :日本@名無史さん:04/03/07 18:21
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.                 ゙ ゙     ! ,.'! こんだけ荒れてりゃ
                       .l'".l >>1は本望だろうね
       ,---,             ,.'. ..|
.       !. /            ,r'. . . !
       ゝ'            ,r". . . . |
                  ,、 '". . . . . . .!
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`゙゙''' ‐- 、、、、、、、 -‐ '''":::::::: . . ..l. . . . . l . . .|
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19 :日本@名無史さん:04/03/07 18:22
>>14-15
ああ、長楽寺文書にある関東下知状の誤記のことねw
まぁ実際には高時ではなくその下の事務官僚たちのミスなんだろうけど(高時は今でいうハンコ押し=決済署名だけ。
当時は北条貞時の諱の影響か、「貞」が上に来るのが普通だったんで間違えたんだろうな。


20 :日本@名無史さん:04/03/07 19:11

新田義貞がクソ尊氏に負けてから、どうなったの?
根絶やしにされたわけではないよね。

新田さんって全国的にも多いよね。


21 :日本@名無史さん:04/03/07 19:19
>>20
>クソ尊氏
引きこもりのオマエよりマシだろ?(p

22 :日本@名無史さん:04/03/08 11:35
最近、新田涼子って人の名前をよく目にするな

芸能人だと思うのだが(興味がないのでよくわからない)
もしかして新田一族の末裔かな?

23 :日本@名無史さん:04/03/08 23:00
おまえら、まずは前スレ埋めろや
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1046780432/


24 :日本@名無史さん:04/03/09 00:07
足利の庶流である新田では武士の信望を集めることができない。
八幡太郎義家の嫡流で、一説には鎮西八郎為朝の子孫とも言われる足利にはカリスマ性がある。

25 :日本@名無史さん:04/03/09 01:43
>24
足利の庶流なのか?

26 :日本@名無史さん:04/03/09 03:04
>>22
イラク復興支援に当たっている航空自衛隊派遣部隊は、3日からイラクへの
空輸を開始した。
クウェートからイラク南部のナシリア近郊にあるタリル空港への輸送である。
第1号機には派遣部隊長の新田一佐が搭乗し、タリルで陸自派遣部隊の業務支
援隊長・佐藤一佐に荷物を引き継いだ。
新田一佐は「ほっとしました」と語っている。


27 :日本@名無史さん:04/03/09 03:44
>>24
電波ですか?
新田氏が足利氏の庶流でないことは系図を一目見るだけでも明らかですよ。
嫡流、庶流という言葉の定義から勉強し直すことをお進めします。


28 :日本@名無史さん:04/03/09 04:49
>>24
為朝の子孫が聞いて呆れる尊氏のへたれぶりは
前スレの>960あたりに詳しく述べられているよ(ワラ



29 :日本@名無史さん:04/03/09 09:26
足利自体が庶流。
しかし長子相続が定着したのは鎌倉時代後半。
それまでは子供全員に相続権があったし、嫡流より庶流の方が羽振りの良い
家もあった。北条だって桓武平氏だけど庶流の庶流の庶流。

30 :日本@名無史さん:04/03/09 19:30
>>27
君は馬鹿ですか。
北畠親房等の公家の認識を知ってるかい?

31 :日本@名無史さん:04/03/09 22:25
>>30
公家のお方ですか?


32 :日本@名無史さん:04/03/09 23:39
源義国から分かれた新田と足利では、足利が嫡流、新田が庶流と説いておられる。
この説は大いに傾聴に値するが、鎌倉幕府内での地位を見ても、新田は足利のはるか
下位にあった。

33 :日本@名無史さん:04/03/09 23:56
少なくとも、義国の地位を継いだのは、
義国が任ぜられていた鳥羽院北面の地位を継ぎ、
朝廷での昇進も新田義重とは比較にならない程早かった
足利義康であることには疑いようもない。

34 :日本@名無史さん:04/03/10 00:27
>>30
「尊氏が末の一族なり」っていうあれか?
そして、おまえはその北畠の認識が正しいと言うのか?(pu
>>31
「源氏」の嫡庶はどっちか?って話ならまだわかる。
でも>>24は新田を「足利」の庶流だと言っているんだよ。明らかにおかしいじゃん。


35 :日本@名無史さん:04/03/10 00:38
>>34
少なくとも公家の認識、
それも建武政権の破綻後に
新田義貞の味方であるはずの
北畠親房が「尊氏が末の一族なり」
と著述した意味は大きいと思わないか?
少なくとも新田は公家の認識では全く無名の
「足利の末裔」でしかなかったんだよ。

うだうだ言う前に、
新田が「足利」の庶流だというのが
「明らかにおかしい」
根拠を示せ。

それから、お前の言う
「源氏」の嫡庶はどっちか?
って何だ?
それこそ証明のしようがないものじゃないのか?

36 :日本@名無史さん:04/03/10 00:52
>35
新田が足利の庶流かどうかは
根拠も糞も無いだろ?

まぁ、源氏(足利)の庶流と言えなくもないが・・・

37 :日本@名無史さん:04/03/10 01:47
>>35
根拠って・・・おまえは系図を見たこと無いのか?www

38 :日本@名無史さん:04/03/10 02:19
新田厨は何で同じ話をループさせるのかね?
学習機能が無いのか?

39 :日本@名無史さん:04/03/10 02:44
>35
北畠親房の記述が正しいのなら

足 利 尊 氏 は 逆 賊 っ て 認 識 で O K ?

40 :日本@名無史さん:04/03/10 03:26
>>35
北畠親房など公家の一部でそういう認識が持たれていたことと、実際に新田氏の出自が何なのかは話が別だろ。
当時の公家たちの認識について議論するのはそれなりに意味があると思うが、
そもそも>>34が言っているのは単なるファクトの問題なんだから、
それについて根拠を示せとかいうのはかなりキチガイじみている。


41 :日本@名無史さん:04/03/10 05:16
>>35の脳内では新田義重は足利義康の子供ってことになってんだろうよ



42 :日本@名無史さん:04/03/10 06:25
『尊卑分脈』には義国の注記に
「号 足利式部大夫」
とあるんだが。
義国の本領も足利荘。

系図史料はともかく、
足利氏で足利姓を最初に使用したのが確実なのは
義康の子義清、
新田氏は義重が新田大炊介と呼ばれたことは
『吾妻鏡』によって分かる。

誰が初代であるか、という捉え方の問題なのだとは
思うが、義康が義国の嫡子である(長幼ではなく)
ことは明らかなのだから、
義重は義国流の庶流だろ?

43 :日本@名無史さん:04/03/10 12:46
当時義国流に嫡庶なんて考えはなかったんじゃん?

44 :日本@名無史さん:04/03/10 13:49
新田義貞は鎌倉へ攻め上る途中で、どんどん集まってくる各地の豪族が
自分の旗のもとではなく、同道している尊氏の子供のもとに集まってきている
という事実を知って、さぞ寂しい思いをしたんだろうね。

45 :日本@名無史さん:04/03/10 14:00
源氏ひっくるめて足利と認識してた公家が結構いた、ってだけの話のような。

>>44
何がどうだろうと兵が集まるならそれでよし、としか思ってなかったかもよ。
そういうのが気になりだすのはゆとりがある時だし。

46 :日本@名無史さん:04/03/10 15:31
>>43
俺もそう思う。どっちが嫡流かって問題は同時代的にはそんなに意識されていなかったのでは?
そういうのが問題になってくるのは、足利が天下を取ってからの後付けの話であって。
で、更にその後、天下を取った徳川が新田末裔を名乗ったから話が余計ややこしくなったと。


47 :日本@名無史さん:04/03/10 15:42
嫡流そのものの定義も時代によって変化しているからね。
例えば一般に源義朝の嫡男は、官位昇進の早さとか生母の身分なんかで
三男の頼朝とされているようだが
平治物語では長男の義平が重盛に一騎打を挑む際に「御身は平家の嫡子、我は源氏の嫡子」と名乗っている。
義平と新田義重は家の中における位置付けが似ているので
義重の周囲の人間には義重が義国流源氏の嫡男と思われていた可能性はかなりある。
というより、その頃の嫡男というのは実子とか長男とか、その程度の意味だったのかもね。


48 :日本@名無史さん:04/03/10 15:51
義貞の言動を見ていると
彼は正直少しアホォですな。

しかし、裏切りや暗殺を重ねずるがしこく勝ち残った尊氏よりも、
アホォではあるが忠義な熱血漢であった
義貞のが好感がもてる。

49 :日本@名無史さん:04/03/10 15:51
>>42
義国って本領は足利なの?
「足利別業に蟄居」とあるのを何かで見た気がするんだけど
別業ってのは本領とは言わないんじゃないかと。
教えてエロい人

50 :日本@名無史さん:04/03/10 17:31
京が本拠という意

51 :日本@名無史さん:04/03/10 18:49
なんか、足利、新田の庶嫡の問題って
大覚寺統、持明院統の問題と
立場が交差してるのが面白いね。
北朝 南朝
持明院統(兄の系統)vs大覚寺統(弟の系統)
足利氏 (弟の系統)vs新田氏 (兄の系統)

52 :日本@名無史さん:04/03/10 20:56
坂東に本拠を置いていた義朝の嫡男は義平。頼朝は京都支店長として摂津源氏の見張り役。

53 :日本@名無史さん:04/03/10 21:06
前スレの>>960にマジレスするとなんで鎌倉末のCさんが拝一刀を知っているのかという
ことだ。

54 :日本@名無史さん:04/03/10 21:07
ついでに言えば旗本クラスって・・・・・・
鎌倉末で旗本っていうのか
ありえな〜〜い!BYプリキュアブラック

55 :日本@名無史さん:04/03/10 21:19
>>52
>頼朝は京都支店長として摂津源氏の見張り役。
何故そこで摂津源氏が出てくるの?

56 :日本@名無史さん:04/03/10 21:23
よーく考えてみるがいい

57 :日本@名無史さん:04/03/10 21:34
平家となかがよい

58 :日本@名無史さん:04/03/10 21:43
そもそも頼信、頼義、義家の系統自体、経基流清和源治の嫡流なんですか?
本来嫡流は源頼光流だと思うんですが。
単に後世の人間が頼朝の宣伝に乗せられてるだけではないのですか?

59 :日本@名無史さん:04/03/10 22:05
>58
まったくその通り。
四天王を率いる雷斬りの頼光殿
の摂津源氏こそが
源氏の本流。

60 :日本@名無史さん:04/03/10 22:14
ところで嫡流問題であるが
義貞が鎌倉を落とした時の
鶴岡八幡の神宝問題からもわかるように
残念ながら八幡太郎義家の本流に当たるのは
足利氏であると見るのが妥当なようだ。

と思ったがそもそもあの旗は本当に
義家が奉納したものなのだろうか?
当時の源氏の旗は赤旗でなかったか?

61 :日本@名無史さん:04/03/10 22:17
共産主義者だったのか

62 :日本@名無史さん:04/03/10 23:50
甲斐の武田氏も常陸の佐竹氏も源義光の子孫だけど
佐竹は武田の庶流なんて言わないでしょ?
朝廷や幕府に対して一族を代表して交渉できる立場(権力・身分)であれば
庶流とはいえない(本人も他人もそう考えなかった)のでは?

63 :日本@名無史さん:04/03/10 23:52
傍流だ

64 :日本@名無史さん:04/03/11 00:08
天皇が朝鮮系の人だから本流は朝鮮人にきまっているだろうね。

65 :日本@名無史さん:04/03/11 00:21
新羅三郎系こそ保守本流

でも武田は怪しいってどっかで読んだ気がする・・・

66 :日本@名無史さん:04/03/11 01:14
>>60
白旗でしょ‥‥とマジレスする

67 :日本@名無史さん:04/03/11 02:19
摂津源氏厨がまぎれこんでいる悪寒

68 :日本@名無史さん:04/03/11 02:27
当時「まっ白」という旗はあったのかな?
源氏の佐竹に模様を書けといったのは150年も昔のはなしだし。

69 :日本@名無史さん:04/03/11 12:35
幕末の頃は源氏は笹りんどうだろ?足利氏は既成事実を作りたかったんだろ?

70 :日本@名無史さん:04/03/11 13:59
>>69
( ´,_ゝ`)プッ

71 :日本@名無史さん:04/03/11 14:17
>>69
自称新田末裔(実は詐称)の新田厨、必死だな(ワラ

72 :日本@名無史さん:04/03/11 18:00
まあ、実際今でも事業が成功して
成り上がった分家が本家をさしおいて
本家づらすることはある。



73 :日本@名無史さん:04/03/11 19:59
>>72
( ´,_ゝ`)プッ

74 :日本@名無史さん:04/03/11 20:36
まぁ、やり方が汚いのは相変わらずだな(笑

75 :日本@名無史さん:04/03/11 20:53
>>74
( ´,_ゝ`)プッ

76 :日本@名無史さん:04/03/11 21:11
○| ̄|_ =3  プッ


77 :日本@名無史さん:04/03/11 21:58
>>76
( ´,_ゝ`)プッ

78 :日本@名無史さん:04/03/12 04:14
>>54
えっ?言わんの???

「旗本」って、そういえばいつ頃から使われ出す言葉なんだろう?教えてくだされ

79 :日本@名無史さん:04/03/12 09:38
戦国期からだろ。室町時代は奉公衆じゃない?

80 :日本@名無史さん:04/03/14 10:50
まあ義重、義康の頃は
源(河内)本家が健在ゆえに
足利も新田もともに傍流として仲良くやっていたのだろう。

しかし、上州の山奥にいた新田氏と違い、
北条にこびへつらい鎌倉に常駐していた
足利が結局勢力をつけてしまったのであった。

81 :日本@名無史さん:04/03/14 12:19
新田氏も鎌倉に出仕していた訳だが。

82 :日本@名無史さん:04/03/14 14:30
京都で出家してひきこもり

83 :日本@名無史さん:04/03/14 17:40
は?そりゃ新田政義の話だろ?
「新田氏」と言う枠で見れば
新田(世良田)頼氏は鎌倉に出仕していたし、
兄の得川頼有も下野守になっていたことを考えれば
鎌倉に出仕していたと考えて良いと思う。

84 :日本@名無史さん:04/03/14 18:26
岩松政経モナー

85 :日本@名無史さん:04/03/14 18:30
山名モナー

86 :日本@名無史さん:04/03/14 18:31
里見モナー


87 :日本@名無史さん:04/03/14 19:27
岩松はともかく、
里見や山名は「新田一族」として把握されていたのか?
「楠合戦注文」などを見ると
新田一族と山名・里見は別個として扱われているが。

88 :日本@名無史さん:04/03/15 11:11
新田一族のうち、独自に御家人として一家を興していたのが
・新田本宗(由良)-世良田-岩松
・里見氏
・山名氏



89 :日本@名無史さん:04/03/15 18:16
>>87>>88
独自に一家を興すというのは具体的にいうとどういう状態なのか説明キボンヌ。
例えば足利氏。
吉良とか今川、細川、一色、斯波、仁木なんかも幕府から見れば別の一族扱いになるの?


90 :日本@名無史さん:04/03/15 19:36
足利の場合は、
基本的に吉良・斯波・一色・今川など、
足利義氏の子孫は
「足利左馬頭入道跡」として同族として
捉えられてるんじゃないかな。
今川は吉良の庶流だね。

これに対して畠山は畠山上野入道(泰国)跡として
明らかに別個に捉えられている。
微妙なのが桃井で、
足利蔵人入道(義兼)跡と記され
「足利左馬頭入道跡」が「鎌倉中人々」なのに対して、
上野国の住人として捉えられているが、
これが足利本家とは別個なのかどうかは分からない。
同じように微妙なのが渋川で、
桃井にしろ畠山にしろ渋川にしろ、
他の御家人の跡を襲ったとしたら、
「別の家」として捉えられていたのかもね。

91 :日本@名無史さん:04/03/15 21:55
従四位上だの兵衛佐だの馬権頭だの、義親の子孫の義信とか義政って凄くねー?
もしかして源氏の嫡流は摂津でも頼朝でもなくこいつらでは。

92 :日本@名無史さん:04/03/16 00:10
仁木と細川は家格が低かった

93 :日本@名無史さん:04/03/16 07:34
>>91
為義は義親の五男だし、
八幡太郎義家の家ってことに限定すると
義信はもしかして「隠れ嫡流」的にリスペクトされていたのかもな。
義信の子の延朗上人ってのも何気に身分高そうだし。


94 :日本@名無史さん:04/03/16 12:32
義親は廃嫡だから…

95 :日本@名無史さん:04/03/16 19:05
>>92
それってよく耳にする言い方なんだけど、
その「家格」っていうのはどういう風に決まるもんなのかな?
例えば斯波氏なんてのは南北朝初期には足利氏扱いだし
『梅松論』でも「殿」付きで呼ばれたりしていて、ある意味別格なんだけど、
そういう扱いの差ってのは具体的に何から生じるのかと。
官位?生母?役職?所領?血筋の濃さ?それとも他の何か?

96 :日本@名無史さん:04/03/16 19:32
その全てじゃねーの?
例えば、吉良氏は足利義氏の長男(五郎だが)で、
嫡子三郎泰氏の兄に当るし、
鎌倉に出仕して上総介になっているから、
子孫もその先例からか鎌倉時代には
鎌倉に出仕して上総介にも任じられる家柄となった。

斯波氏の場合は祖家氏は名超朝時の娘を母とし、
嫡子三郎頼氏の兄であり、ひょっとすると
本来は嫡子扱いされていたかもしれない人物。
血筋的にも最も本家に近いといえると思う。
家氏は鎌倉に出仕していただけではなく、
中務権大輔・検非違使左衛門大尉・尾張守と、
鎌倉御家人の中でも有数の官職を歴任している。
これらの要因が重なったから
鎌倉末期にも高経が鎌倉に出仕していることが分かるし、
南北朝期にも本家に継ぐ地位を保てたのだろう。

97 :日本@名無史さん:04/03/16 20:10
父親の判断と、あとは本人の資質です

98 :日本@名無史さん:04/03/17 21:04
母親の出自

99 :日本@名無史さん:04/03/18 00:25
>>96
幕府に出仕できることってのが大きいように思うのですが。
出仕すれば功績を評価されて恩賞(領地・官位)など貰えるでしょうから。
例えば複数の子供のうち誰が出仕出来るかどうかってのは
幕府(北条氏)・総領のどちらが決めるんでしょうか?

あと鎌倉期の今川氏なんかは足利の支族である吉良のそのまた支族にあたるのですが
合戦で功績挙げたりしたらどこから恩賞もらうのでしょう?
幕府?足利氏?吉良氏?
幕府から恩賞貰ったら、足利・吉良とは別の独立した
御家人に出世したってことになるのでしょうか?



100 :日本@名無史さん:04/03/18 01:05
桓武平氏が100げっと

101 :日本@名無史さん:04/03/18 01:05
政所下文で地頭になる(所領の領有を承認される)のは御家人でなくても可能。


102 :日本@名無史さん:04/03/18 03:39
>>96
なるほど…。
すると斯波高経の「高」は宗家の足利高氏同様、北条高時から貰った偏諱だったのかな?
だとしたらプライド高いのも頷けるね。

103 :日本@名無史さん:04/03/18 15:40
>>99>>101
幕府と御恩と奉公で結びついているのが「御家人」だってガッコで習った覚えがあるんだけど
それは
「幕府から恩賞(土地)を貰う、もしくは保証される=御家人」
って単純な図式ではないわけね?
だとすると、御家人とそうでない武士との区別ってどういうところにあったんでしょうか?

104 :日本@名無史さん:04/03/18 18:09
僧侶に地頭職を安堵している文書などもあるからね。

105 :日本@名無史さん:04/03/18 18:18
>103
御家人は幕府ではなく将軍と主従関係を結んだ人でいわば幕府の構成員
だから執権には御家人を直接支配する権威はなく調整役みたいなもの

106 :日本@名無史さん:04/03/18 21:43
後家人役を名指しで命令されている家が後家人

107 :日本@名無史さん:04/03/19 01:21
>>105
でも、現実にはすっごく影薄いよね>鎌倉将軍
足利の天下になっても「先代」といえば北条氏のことだし、
南北朝の歴史物語(「太平記」も「梅松論」も)でも鎌倉幕府の親玉はあくまで北条氏って扱いで
最後の将軍(守邦親王だっけ?)の話なんてこれっぽっちも出てこない。
それでも立前上は、全部その親王将軍が軍勢を動員していることになっているわけか。
何というか、難しい時代だなぁ‥‥

108 :日本@名無史さん:04/03/19 13:04
大義名分

109 :日本@名無史さん:04/03/21 01:36
あげ

110 :脇屋義治:04/03/21 17:08
>>102
なるほど。やはり足利系は
北条に媚を売ったおかげで勢力をつけたのは明らかですな。

河内源氏伝統の「義」の字を使い続けた
新田一族とは大違いである。

111 :日本@名無史さん:04/03/21 20:38
>>110
足利:義国_義康_義兼_義氏_泰氏_頼氏_家時_貞氏_尊氏(兄高義)_義詮

新田:義国_義重_義兼_義房_政義_政氏_基氏_朝氏_義貞


…( ´,_ゝ`)プッ

112 :日本@名無史さん:04/03/22 09:48
あげ

113 :日本@名無史さん:04/03/22 15:48
足利の庶流が新田だとすると、
佐竹の庶流が武田、武田の庶流が小笠原、小笠原の庶流が南部ということでOKですか?


114 :日本@名無史さん:04/03/22 16:50
南部の庶流が津軽(笑

115 :日本@名無史さん:04/03/22 23:24
武田と小笠原は同格

116 :日本@名無史さん:04/03/24 15:00
酒井と徳川は同格

117 :日本@名無史さん:04/03/24 18:23
酒井と井伊が同格

118 :日本@名無史さん:04/03/26 18:49
納得

119 :日本@名無史さん:04/03/26 19:16
津軽は南部より格上だよな

120 :日本@名無史さん:04/03/26 19:46
・・・と思ってるのは津軽人だけ

121 :日本@名無史さん:04/03/26 19:51
南部藩関係者の子孫ならともかくなんで領民の子孫まで津軽を嫌うのですか?
別に関係ないと思うのですけど。
津軽が独立して藩財政が厳しくなって年貢が上がったとかあったんですか?


122 :日本@名無史さん:04/03/26 21:25
津軽の人はそろそろ南部の人に謝ったほうが
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1080227774/

123 :日本@名無史さん:04/03/27 00:28
>>121
漏れは八戸に数年住んでいたけど現代のアンチ津軽的思考は歴史関係なさそうだったが。
南部・津軽は口実で青森全体の三割程度を占める南部圏住民の鬱憤て感じ。
他県人の青森イメージが(りんご・米・ねぷた・三味線・吉幾三)等津軽。
ローカル放送も津軽ネタばかりでマイノリティとして無視されるには人大杉。

124 :日本@名無史さん:04/03/27 14:17
岩手の伊達…

125 :日本@名無史さん:04/03/27 14:35
ここは津軽と南部を語るスレですか?

126 :日本@名無史さん:04/03/28 01:55
>125
新田次郎の義貞だと
津軽まで遠征していたな。

127 :日本@名無史さん:04/03/28 14:15
土佐湊

128 :日本@名無史さん:04/03/29 06:04
十三湊だよ

129 :日本@名無史さん:04/03/29 08:33
十三湊じゃけん

130 :日本@名無史さん:04/03/29 16:14
十三(じゅうそう)

131 :日本@名無史さん:04/03/29 19:58
三島十三はじゅうざって読むんですよ。

132 :日本@名無史さん:04/03/29 22:25
>>130
阪神大震災のとき、「十三大橋」を「じゅうさんおおはし」と読んでいたDQN民放アナがいた。

133 :日本@名無史さん:04/03/30 18:12
そんな穴氏んじまえ

134 :日本@名無史さん:04/03/31 23:33
あげ

135 :日本@名無史さん:04/04/01 10:26
井伊万千代
いいまんちょ
エロエロ

136 :日本@名無史さん:04/04/02 14:27
あげ

137 :日本@名無史さん:04/04/02 14:38
あげまん

138 :日本@名無史さん:04/04/03 12:30
大館氏明は死ぬまでバリバリの南朝方だったのに、その子の義冬から足利将軍家の奉公衆になったのはなぜ?
なんでも佐々木道誉が九州に隠れていた義冬に娘をめあわせて引き立ててやったらしいけど
そんなことをわざわざやってやる必然性がどこにあったのかがわからん。
氏明と道誉の間に個人的な恩義とか友情でもあったのかな?

139 :日本@名無史さん:04/04/03 20:05
義冬の兄弟は難聴

140 :日本@名無史さん:04/04/05 07:55
>>138
確かに道誉にとってはあまりメリット無いような‥‥
道誉は一度新田軍に投降しているから、助命のため氏明が口をきいてくれたとか
そういう恩でもあったかとも思うけど、それにしても娘までくれてやるのは謎だわなぁ。


141 :日本@名無史さん:04/04/05 18:07
しかも将軍の親衛隊ともいうべき奉公衆だからね。
よっぽど腕がたったとか、何か相応しい理由はあったんだろうけど。

142 :日本@名無史さん:04/04/06 00:29
大館を利用して他の新田一族を北朝に帰順させるようなことでも画策していたとか?
もしくは、単に道誉が八方美人的にいろんな勢力に恩を売っただけなのか?

143 :日本@名無史さん:04/04/06 09:35
売名行為

144 :日本@名無史さん:04/04/06 09:38
駿河健康ランドの石川ともみさん、かわいい。

145 :日本@名無史さん:04/04/06 18:59
それどこにあるの?

146 :日本@名無史さん:04/04/06 22:38
>>142
二行目に同意。道誉の考えていることは常人の感覚では計り知れない。

147 :日本@名無史さん:04/04/06 23:02
>>142
その二つだったら俺は一行目に同意かな。
単なる八方美人では、あそこまで政権に食い込めないと思う。
直義・師直亡き後、尊氏・義詮の二人がいちばん頼りにしていたのは道誉だし、
幕府に一番忠実だったのも案外道誉だったりする(もちろん道誉にとってもメリットがあるわけだが)

148 :日本@名無史さん:04/04/08 11:44
age

149 :日本@名無史さん:04/04/08 15:02
奇人であり謀略家であるから
確実な根拠でもないと判断が難しい

150 :日本@名無史さん:04/04/08 20:24
バサラ

151 :日本@名無史さん:04/04/09 20:55
あげ

152 :日本@名無史さん:04/04/10 00:16
てか京極道誉だろ。

153 :日本@名無史さん:04/04/10 00:32
鎌倉時代 足利一門で独立御家人は足利宗家と吉良と斯波の3氏だけだったとおもー。

新田の子孫は岩松流が 徳川幕府より「新田義貞嫡流」と見做され交代寄合で幕末にいたる。
現在も子孫健在。
本当の新田本流は堀江姓を名乗り健在。

参考
『清和源氏の全家系』(全6巻 新人物往来社)
『清和源氏 新田堀江家の歴史』(高文堂出版社 絶版)

154 :日本@名無史さん:04/04/10 07:31
>>153
なんで?
少なくとも畠山・渋川・桃井は御家人であるのは間違いない。
鎌倉幕府法にのっとれば、足利義氏の子孫は
僧と女子を除けば、みんな御家人であるはず。

つ−か、その奥富氏の本出鱈目だから、信じるなよ。

155 :153:04/04/10 11:55
御家人台帳でいうところの独立した“家”ではないという意味でごわす。
足利庶流家のほとんどは 宗家の家の子扱いであったとおもー。
幕府から宗家と別扱いの庶流は吉良と斯波くらいだとおもー。
ひょおとしたら渋川もそうだったかしらんがおいら知識不足。エライ人教えて。

156 :日本@名無史さん:04/04/10 14:40
畠山 桃井は独立してる

157 :日本@名無史さん:04/04/10 18:32
世良田 岩松

158 :日本@名無史さん:04/04/11 00:54
畠山なんて成立の経緯から考えても独立に決まっているだろう。
また、斯波が独立なら渋川も独立のはず。
桃井はよく知らないが、桃井の祖で承久の乱で戦死した義助(義氏の弟)の遺児・義胤がわざわざ祖父である義兼の養子になっていることからして家格は高そう。

>>153
奥富氏の本は、>>154も言っているけど、そのまま信じないほうがいいよ。
奥富氏は、かなり偏見と思い込みが激しい上に、ほとんど実証的な作業をしてないまま、妄想と主観で書いている面が強い。


159 :日本@名無史さん:04/04/11 11:31
>>153
1333年の「楠木合戦注文」に「大番衆」として
「足利蔵人二郎跡」が記されている。
「足利蔵人」は足利義兼を指すことから
足利蔵人二郎は桃井氏の祖、
足利義兼の二男義助ということになる。

この時の大番衆は上野国の御家人であることから
桃井氏は幕府に「上野国御家人」として
把握されていたことが分かる。
足利氏本家は「鎌倉中御家人」であり、
桃井氏は足利本家からは一応独立した立場だったようだ。

それから「御家人台帳」って何?

160 :日本@名無史さん:04/04/11 21:30
吾妻鏡なんかに出てくる足利一族は、仁木(日記)や細川(細河)のように明らかに家臣扱いのものを除いては、基本的に足利姓で名前が記されている。

161 :日本@名無史さん:04/04/11 21:43
>>160
畠山は?
まさか足利一族じゃないなんて言わないよね?
渋川も、鎌倉時代に渋川姓を名乗っていた史料がある。

162 :日本@名無史さん:04/04/11 22:09
畠山の扱いは別枠だろ

163 :日本@名無史さん :04/04/11 22:24
>>162
なんで別枠だといえるの?
むしろ足利一族と一緒に行動してるときの方が多いけど?

164 :153:04/04/12 02:17
あー 奥富氏は電波でしたか。新しい発見でごわす。皆さんスマソ。
おいらの大好きな吉良氏、吉良満氏の越前守護補任も奥富先生のガセネタでしたか。
桃井はどうかしらんが畠山が足利の家の子扱いはどうかなあと思ってたんだよね。
それから 先生は妙に斯波を高くアピールしてるもんね。

ねえ しつこいようだけど吉良は独立してないの?
エライ人おせーて。

165 :日本@名無史さん:04/04/12 02:45
>>164
吉良は鎌倉後半期に足利姓で三河守護として出てきたりもする。

>>162
無論、畠山と岩松は別ですよ。

166 :日本@名無史さん:04/04/12 02:48
>>161
姓なのか単なる家系を示す号のようなものなのか微妙な部分もある。
南北朝期に北朝に帰順した新田一族宛に室町幕府が発給した文書なんかには、「新田大嶋○○殿」とか「新田大館○○殿」みたいな表記もあったりする。


167 :日本@名無史さん:04/04/12 02:53
>>161
「斯波」だって家名としては鎌倉時代から存在する。
苗字として名乗るようになるのは室町以降だろうけど。

168 :日本@名無史さん:04/04/12 18:31
「家の子」であることと「一族」であることは違う。
例えば足利義純が畠山重忠室(娘という説もある)と婚姻して、
その子泰国が「畠山」氏を継いだ。
だから、足利本家を惣領と仰ぐ「足利一族」には違いないが、
同時に鎌倉御家人「畠山氏」の家を継いでいることになる。
畠山氏が足利一族として把握されていることを示す史料としては、
『吾妻鏡』の「おう飯」や、将軍供奉の位置などに顕著に現れる。
他の御家人の家名を継いでいるパターンが渋川氏や桃井氏。
いずれも、鎌倉中期に没落した御家人の家名を
継いでいると考えていいと思う。

一方、斯波や吉良は、祖家氏及び長氏が、出自(母方や、嫡子の兄であるという点か?)
などの理由によってだろうが、鎌倉幕府内に高い地位を得、
子孫も高い地位を得て幕府に出仕することになる。

他の足利義氏の子孫たちは、足利氏惣領の強い制約を受けながらも、
御家人身分は保持していると考えるべき。
一族内では「家の子」的な地位に甘んじていたとしても、
御家人身分を保持しているかどうかというのは別問題。
得宗被官にだって、御家人はたくさんいるでしょ?
それと同じ。

足利義清の子孫(仁木・細川・荒川)が御家人身分を得ていたかは不明。
義清は鎌倉には仕えていないし、その子孫の行動も鎌倉初期は不明だからね。

169 :日本@名無史さん:04/04/12 18:40
>>164
吉良満氏の越前守護補任は事実。
佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』に詳しく載っている。

>>165
三河国守護は足利氏本家が鎌倉末期までがっちり固めている。
吉良氏の三河国守護はありえない。

>>167
「斯波」「吉良」という家名が鎌倉時代から存在しているとする根拠は何?
斯波郡を治めていたから斯波だ、というのは理由にならないよ。

170 :日本@名無史さん:04/04/12 22:56
斯波氏が「斯波」を名乗るのは室町になってからだったと記憶している。

171 :日本@名無史さん:04/04/13 01:20
>>169-170
家名ではあっても、苗字としては名乗っていないと言ってるでしょ。
北条一族でいうところの極楽寺流や常葉流みたいなもの。
これらは、特定の家系を指す名称(=家名)ではあっても、文書の宛所などの史料上では基本的に北条姓で現れるので、苗字とは言えない。
他の例では、佐々木一族の諸氏のうちの六角・京極・塩冶・朽木なども、家名としてはとっくに成立しているが、鎌倉〜室町前半期においては同様の理由で苗字とは言い難い。

足利一族に関して言えば、他家の名跡を継ぐ形で成立したとされる畠山・桃井・渋川などは、すでに鎌倉期段階で苗字として定着している。
また、仁木・細川のように家臣扱いの一族も、鎌倉期の段階で既にこの家名が苗字として使用されている。
>>168もあげた吾妻鏡の「土完」飯の記事に足利本家当主の従者として時々登場する日記姓や細河姓の人物が仁木氏・細川氏であることはほぼ疑いない。
そして、このどちらにも当てはまらない吉良や斯波は、鎌倉末〜南北朝初期に至るまで、苗字として足利を名乗っていた。
しかし、苗字として名乗っていなくても、吉良家・斯波家はそれぞれの祖である長氏・家氏の時代から、三河国吉良庄・陸奥国紫波郡を領しており、
それが家名の由来になっている以上、特定の家系を指す名称(=家名)としてはその頃から使われることがあったと考えるのが自然。
そして、のちに室町幕府によって分家一族の足利姓の使用が禁止された結果、家名が苗字として定着したと言える。


172 :日本@名無史さん:04/04/13 02:08
>>171
>他家の名跡を継ぐ形で成立したとされる畠山・桃井・渋川
畠山はわかるけど桃井・渋川って?

173 :日本@名無史さん:04/04/13 02:16
>>172
詳しいことは>>168が先に書いているので省略。

174 :日本@名無史さん:04/04/13 02:58
>>166のような表記は、「大嶋」や「大館」が単なる家名から苗字へと変わる過渡期的な状況を示すように思えるかも。
他の例では、例えば佐々木文書(尼子氏の子孫に伝わった文書群)における尼子氏宛文書の宛所の表記について年代を追って見ていくと、
「佐々木○○殿」→「佐々木尼子○○殿」→「尼子○○殿」
のように変化していて、「尼子」が徐々に苗字のようになっていくのがよくわかる。


175 :日本@名無史さん :04/04/13 06:14
>>171
だから、「斯波」「吉良」が家名として「使われていた」
根拠を示せ、と言ってるんだよ。
171が挙げた「極楽寺」も「常盤」も『太平記』の頃に便宜上つけられた物であって、
鎌倉時代には使用されていない。
金沢貞顕は、「赤橋殿」と呼ばれていたが、
これは単に居住地を示す言葉であって、
家名で名字でもない。

それから、仁木はともかく、『吾妻鏡』に出てくる御家人細河氏を
そのまま足利流細川氏と看做すのは危険だぞ。
小川信氏も断定していないし、むしろ疑問とする声の方が大きい。

176 :日本@名無史さん:04/04/13 09:58
金沢が赤橋?

177 :日本@名無史さん:04/04/13 17:55
>>176
そう。
金沢北条氏は鎌倉時代には一度も金沢姓で呼ばれていない。
貞顕は鎌倉の赤橋邸に住んでいた為に「赤橋殿」と呼ばれた。
かと言って「赤橋」は姓でも家名でもない。

178 :日本@名無史さん:04/04/13 18:11
>>175って、なんでそんなに威張った物言いするんだろう。
イヤな奴。

179 :175:04/04/13 18:34
>>178
スマソ。

180 :日本@名無史さん:04/04/13 21:42
じゃあ、赤橋はなんていうの?

181 :日本@名無史さん:04/04/13 22:33
Red Brige

182 :日本@名無史さん:04/04/14 00:57
俺、両親の実家&本家の方にいる親戚に電話するとき
苗字じゃなくて住んでいる市の名前を言う。

ex.浦和市に住んでいる太郎なら、「浦和の太郎です!」みたいにね。

183 :日本@名無史さん:04/04/14 03:26
>>173
>詳しいことは>>168が先に書いているので省略。
まったく触れられていないけど…
桃井・渋川ともに他家の名跡を継いだという具体的な話が本当にあれば知りたい。
厳密に言えば、畠山も名跡を継いだわけではないからね。

184 :日本@名無史さん:04/04/14 03:33
>>182
浦和市はあんたの土地じゃないだろw?

まぁでも、親戚相手だとみんなが同じ苗字なもんだから、
住んでいる土地の名で言ったりすることは普通にあるわな〜。

185 :日本@名無史さん:04/04/14 03:48
>>175
根拠といわれても困るけど、のちに吉良氏や斯波氏になる家系を指す特定の名称がないことから考えると、
これらの家系を足利本家と区別して示す必要性があるときは、分封地の地名を用いた可能性は高いと思われる。
もちろん、完全に断定はできないので、>>171では、そう考えるのが自然という表現にとどめた。

ただ、特に斯波氏に関して言えば、斯波が苗字として定着する南北朝末期には、管領家の斯波氏(武衛家)は明らかに越前を中心とした北陸に拠点を置いており、
それにも関わらず、苗字として斯波を名乗ったという事実は、斯波がこの特定の家系を指す名称としてそれ以前から使われることがあった可能性を強く示唆するものと考えられる。
また、そもそも斯波が完全に南北朝末期になってはじめて出現した家名なら、武衛家と高水寺斯波氏(志和御所)の苗字がどちらも同じ斯波ということはないと考えられる。
つまり、この家系を示す家名としてそれ以前から斯波が使われることがあり、互いにその嫡流を自認しているからこそ、武衛家と志和御所はいずれも斯波を苗字としたとも思える。


186 :185続き:04/04/14 04:18
>>175
>『吾妻鏡』に出てくる御家人細河氏を
>そのまま足利流細川氏と看做すのは危険
それ以前にそもそも足利流の源姓細川氏は、御家人扱いされていない可能性のが高いだろう。
但し、足利家の当主が行った「土完」飯(おうばん)の記事に関してだけは、そこに登場する細河姓の人物は、足利一門の細川氏と考えて問題ないはず。
基本的に「土完」飯の役は、その一族のものだけで執り行っているのが普通であり、
足利家当主が行っている「土完」飯で、その従者として登場するのは、他もすべて足利一門と思われる人物ばかり。
(唯一例外的に、足利義氏の行った「土完」飯には、彼の娘婿の新田政義が登場していることが若干ある)

>金沢貞顕は、「赤橋殿」と呼ばれていたが、
それも知っている。
赤橋も金沢も、もとは単なる個人の通称であるし、家系を指して○○流という言い方は錯綜していて揺れがあるのも事実。
例えば、常葉流なんかは、政村流を指す場合と、極楽寺の支流で仲時(最後の六波羅探題北方)に繋がる系統を指す場合があるし。
また、北条義時も江間義時と書かれる場合があり、揺れがある。(まあ義時段階では北条自体が苗字として確定していないのだが)
・・・そういう意味では、>>171で鎌倉北条氏を例に出したのはちょっとまずかったかナ。スマソ

>>178
まあ、でもそのくらいは、高圧的な態度に出ないと、この業界で生き残れないのも事実だから。
万が一、仮にトンデモ説であったとしても、それをごり押しできるくらいの図太さがないと・・・。
俺のレスだって見る人が見ればかなり失礼に見えるかも知れないし。(自分じゃわからんけど)


187 :日本@名無史さん:04/04/14 14:21
仁木はともかく、『吾妻鏡』では細河氏の登場は
建長二年三月一日条の「閑院殿造営雜掌目録」だけで、
「おう飯」の記事には出てこないぞ。


188 :日本@名無史さん:04/04/14 17:21
で、赤橋は何ていえばよいのかわかったかなぁ?

189 :日本@名無史さん:04/04/15 13:32
どかんばん

190 :日本@名無史さん:04/04/16 14:11
ハァ?

191 :日本@名無史さん:04/04/17 10:13
ひぃ?

192 :日本@名無史さん:04/04/17 20:42
太田市・新田町・尾島町等が合併してできる新市名が太田市に決まったようです…。
ハァ…。折角新田市にするチャンスだったのに。地元民はセンスねえなあ。

193 :日本@名無史さん:04/04/18 01:42
>192
同意

194 :日本@名無史さん:04/04/18 14:24
禿

195 :日本@名無史さん:04/04/18 14:37
だから新田は駄目なんだ
駄目なヤツはなにやっても駄目

196 :日本@名無史さん:04/04/18 16:05
>>192
同意。でも俺は新田市と思いこむからどうでもいいや。手紙も新田市で出してやる。
どうせ着くだろ。

197 :日本@名無史さん:04/04/18 18:45
郵便番号が正しければな

198 :日本@名無史さん:04/04/19 04:04
合併後馬鹿な名前になるのって多くねーか?

199 :日本@名無史さん:04/04/19 13:01
まだ太田でマシなんじゃない?

200 :日本@名無史さん:04/04/19 14:10
既存の地名を使えばいいのに、サヨクっぽい平仮名造語でわけわかめ
な市名が多いよな。


201 :日本@名無史さん:04/04/19 18:24
>>200
>サヨクっぽい平仮名造語
意味不明。何で平仮名造語だと左翼っぽいんだ?

202 :中華思想:04/04/19 22:20
漢字だとウヨクっぽいってことでは

203 :日本@名無史さん:04/04/19 22:24
>>201
サヨクが好んで使う手口。
一億総白痴化。

204 :日本@名無史さん:04/04/19 23:04
仕方がないだろ、全共闘世代なんだから。

205 :日本@名無史さん:04/04/20 00:53
なかなか面白い話が出てたのに・・・。
>>177
>金沢北条氏は鎌倉時代には一度も金沢姓で呼ばれていない。
>貞顕は鎌倉の赤橋邸に住んでいた為に「赤橋殿」と呼ばれた。
>かと言って「赤橋」は姓でも家名でもない。 貞顕は、「赤橋殿」

太平記では北条一門は北条高家とじゃなくて名越高家みたいな名前で出てきますよね。
ということは室町の初期にそういう呼び方が始まったのですか?
なんでそういうふうに呼び出したんでしょう?
しかも177さんの話では生きてた頃は呼ばれもしなかった家名で。

ひょっとして金沢流初代の実泰が「金沢殿」って呼ばれてたら、その子孫は太平記では金沢○○なの?
でも金沢の分家は別の姓で出てた気がするな。
太平記の作者はどういう基準で名前を呼んでるのかなー。





206 :太平記の作者:04/04/20 00:57
気分で書きました
正直すまんかった

207 :市民団体:04/04/20 01:06
これからは「あかはし」「かなざわ」殿でどうよ?

208 :日本@名無史さん:04/04/20 02:02
それを言い出したら室町時代の将軍家は「足利」氏ではなく「室町」氏

209 :日本@名無史さん:04/04/20 02:48
次郎

210 :日本@名無史さん:04/04/20 05:26
>>205
太平記といえば、名越が楠軍に旗や幔幕を奪われて嘲笑されるシーンがあったけど
それによると家紋は北条の三つ鱗じゃなくて「三本唐傘」ってことになっている。
これが本当なら、すでに別の一家ってことになるんじゃ?と思うんだが、
俺には難しいことはようわからんw
詳しい人誰か説明キボン。

211 :日本@名無史さん:04/04/20 05:44
伊勢丹メンズ館4階の浦野靖代さん、かわいい

212 :日本@名無史さん:04/04/20 20:45
「かねさわ」だYO

213 :日本@名無史さん:04/04/21 01:48
>>212
金沢文庫(かなざわぶんこ)だから「かなざわ」じゃないの?

214 :日本@名無史さん:04/04/21 09:26
≫213
「かねさわ」!永井晋著「金沢貞顕」参照。

215 :日本@名無史さん:04/04/22 00:19
金沢文子か・・・・

216 :日本@名無史さん:04/04/22 00:40
かねざわうんこ

217 :日本@名無史さん:04/04/23 01:37
絶対新田市の方がいいと思うけどなあ。まだ間に合うぞ、考え直せ。

218 :日本@名無史さん:04/04/23 02:07
>>169
>三河国守護は足利氏本家が鎌倉末期までがっちり固めている。
>吉良氏の三河国守護はありえない。

元弘元年に後醍醐天皇側と戦うために上京した鎌倉幕府軍のなかに、三河の御家人を率いている大将として「足利宮内大輔」という人名が出てくる。
この場合、当該国の御家人を率いることができるのは、通例では当該国に軍事指揮権を持つ守護である。
ところが、「宮内大輔」という官名は、貞氏・尊氏のいずれとも異なる。
その結果、この「足利宮内大輔」即ち三河守護を足利惣領家の人物ではなく、吉良貞義に比定すべきという議論もある。


219 :日本@名無史さん:04/04/23 04:41
東群馬市とかミもフタもない名前になるよりは良かったんじゃないの

220 :日本@名無史さん:04/04/23 09:06
足利市があるんだから対抗して新田市の方が他県の人には分かりやすいよ。

221 :日本@名無史さん:04/04/23 10:17
>>218
>「足利宮内大輔」という人名が出てくる。
どこに出てくるの?

222 :日本@名無史さん:04/04/23 18:38
>>218
>「足利宮内大輔」即ち三河守護を足利惣領家の人物ではなく、吉良貞義に比定すべきという議論もある。

『光明寺残篇』に出てくる足利宮内大輔のことだよね?
確か足利宮内大輔=吉良貞家
(貞義は上総介になっているし、この頃は既に出家している)
という説は吉井功兒の説だったっけ?
だけど、吉良の庶流の貞家が
守護になっているとは考えにくいし、
何より建武政権期に宮内大輔の貞家が、
鎌倉幕府崩壊を経ても官職が変わらず
にいるというのは不自然じゃないかな?
この「足利宮内大輔」は従来の佐藤進一氏の見解どおり、
「足利治部大輔」の誤りで、
足利氏当主の前治部大輔高氏であると考えるべきだと思う。

223 :日本@名無史さん:04/04/24 10:26
>>222
鎌倉末期には足利本家当主の格式が「大輔」だったから、
分家の吉良の当主が同じ格式を持っているのは不自然だよね。

224 :日本@名無史さん:04/04/24 15:59
少輔

225 :日本@名無史さん:04/04/24 18:25
>>223
室町期の細川家だと、本家の当主が右京大夫だけど、分家一族に兵部大輔とか刑部大輔とかいたりするよ。

226 :日本@名無史さん:04/04/24 21:21
細川元総理と細川隆一郎の関係は?

227 :日本@名無史さん:04/04/24 21:48
親子


228 :日本@名無史さん :04/04/24 22:19
おホモだち

229 :日本@名無史さん:04/04/24 22:48
>>226
隆一郎は、忠興の長男で廃嫡になった忠隆の子孫。

230 :日本@名無史さん:04/04/25 01:40
細川幽斎は兵部大輔?兵部少輔?

231 :日本@名無史さん:04/04/25 02:12
>>230
細川藤孝(幽斎)
生没年:1534-1610
父:大和守 三淵晴員、母:船橋宣賢女
父:足利義晴?
義父:和泉半国守護 細川元常
万吉、与一郎
1552 従五位下
1552 兵部大輔
1554- 和泉半国守護
1573 改姓長岡
1580 従四位下
1580 侍従
1582-1610 幽斎
1582- 丹後田辺城主
1585 二位法印
1902 贈正二位
正室:光寿院 麝香(父:上野介 沼田光兼)
1563-1645 忠興
1564-1619 興元(常陸谷田部藩へ)
刑部少輔 幸隆
中務少輔 孝之
娘(吉田兼治室)
娘(木下延俊室)
娘(伊賀守 長岡好重室)
娘(長岡孝以および小笠原長良室)


232 :日本@名無史さん:04/04/25 10:11
>>229
忠隆の子孫って江戸時代何してたの?

233 :日本@名無史さん:04/04/25 15:20
>232
労働学習生殖睡眠

234 :日本@名無史さん:04/04/25 18:18
>>232
熊本藩に代々部屋済みで養われていたようなものでは?

235 :日本@名無史さん:04/04/27 00:21
でも、治年の代で細川宗家が断絶したときにも、後継者候補にならなかったんだね。

236 :日本@名無史さん:04/04/28 08:55
先祖が廃嫡されたら普通ならないだろ

237 :日本@名無史さん:04/04/28 23:28
安室奈美恵のAlarmは抜けるよ。

238 :日本@名無史さん:04/04/28 23:42
☆☆群馬県新田町ってどう思う?☆☆
http://kanto.machi.to/bbs/read.pl?BBS=kanto&KEY=1038476183

239 :日本@名無史さん:04/04/29 01:06
>>236
加賀藩における前田利政の子孫みたいなものか。

240 :日本@名無史さん:04/04/29 01:47
ゆゑあればこそ
ここにかきおくなれ
しするにあたり
われよりのちのこにたくす
われにかはりててんかをとり
ゑんそのゐたくをなしとげよ
われせいうんをおもふやたねん
しかれどもわれにとくなく
ゆめむなしくやぶれ
わづかにかめいをまもらむがため
いちめいをなげうつのみ
われよりのちのこにたくす
わがいをつげよかし
われにかはりててんかをとれ


241 :日本@名無史さん:04/05/03 17:22
細川藤孝って船橋宣賢の外孫なんだ。

242 :日本@名無史さん:04/05/04 20:34
船橋宣賢?・・・って誰?

243 :日本@名無史さん:04/05/04 21:17
>>242
清原氏系の公家。
清家流といわれる学者の家系。

244 :日本@名無史さん:04/05/06 15:49
細川藤木孝

245 :日本@名無史さん:04/05/07 23:18
あげ

246 :日本@名無史さん:04/05/08 19:55
のちの天下人徳川家康は
新田系源氏を名乗りました

247 :日本@名無史さん:04/05/08 20:10
足利が源氏で信長が平氏、光秀が源氏で秀吉が源平藤橘以外、で家康が源氏だと
光秀の源氏の次としては変じゃありませんか?やっぱり源氏と平氏は交互に
登場しないとね。

248 :日本@名無史さん:04/05/08 20:38
>>247
秀吉は平朝臣を称していたこともあるから、源平の交代でいいんじゃないの?

249 :日本@名無史さん:04/05/09 00:03
光秀の天下はわずか11日だけだからなぁ・・・。

250 :日本@名無史さん:04/05/09 00:58
>>247
またそのネタかよ。

251 :日本@名無史さん:04/05/09 09:26
あげ

252 :日本@名無史さん:04/05/10 00:41
age

253 :日本@名無史さん:04/05/10 21:44
≫247
百姓の出の秀吉が、どーやって平朝臣を称したの?
≫249
光秀は11だけだったけど、一応朝廷から認められた天下人でしたよね。

254 :日本@名無史さん:04/05/10 22:28
秀吉は足利義昭の猶子になり損ねて平氏を称した

255 :日本@名無史さん:04/05/12 19:09
あげ

256 :日本@名無史さん:04/05/13 22:36
何故、源平藤橘しか征夷大将軍になれないの?坂上田村麻呂は?

257 :日本@名無史さん:04/05/13 23:03
制度上は定まっていないはずで、単なる先例主義。実は平、橘は実例がない。
大伴、坂上、文室(大なしの征夷将軍)、藤原(平将門の乱の時に征東大将軍)
あとは源義仲以降全部清和源氏ということになっている。
徳川が清和源氏だって?プププ、ですけどね。

258 :日本@名無史さん:04/05/13 23:04
源氏は先例が多いから良いとして、なぜ平氏がなれると思ったのか納得いきません。
だれか説明お願いします。

259 :日本@名無史さん:04/05/14 05:14
確か、室町幕府を滅ぼした後の織田信長が朝廷から征夷大将軍に
なってくれと請われて断った話があったような。
織田氏は平氏系統でしたっけ?

260 :日本@名無史さん:04/05/14 09:21
村井貞勝に命じて密かに朝廷から推任するように根回ししたうえに、これを断った。ジサクジエンカコワルイ

261 :日本@名無史さん:04/05/14 09:27
織田家は平資盛の末裔を称しています。
実は越前の方の小さな神社の神官の子孫という説もありますが。

262 :日本@名無史さん:04/05/14 09:30
>>257
>あとは源義仲以降全部清和源氏ということになっている。

ヲイヲイ、摂家将軍や宮将軍を忘れるな。

263 :日本@名無史さん:04/05/15 16:24
>>261
てか、平資盛の遺児の親実が越前織田神社の神官の養子になったものが織田の祖先ってのが、信長公記なんかの公式見解でしょ。
その後、室町時代に越前守護となった斯波氏の被官となり、守護代として尾張に赴任。
まあ、織田家の祖先が織田神社の神官をしていたのは、ほぼ間違いないらしい。
平資盛の血筋かどうかは別にして。

264 :日本@名無史さん:04/05/15 17:52
その織田家と信長の織田家が本当に血縁かどうかもやや怪しい所はあります。

265 :日本@名無史さん:04/05/15 18:47
織田氏は美男美女系だし、平氏の末裔って言われると納得してしまいそう。
家康の息子達や一族のの仲の悪さを考えると、源氏って言われて納得してしまいそう。

266 :日本@名無史さん:04/05/15 21:40
>265
織田家だって一族内で主導権を巡って争っていたんだが。
信長なんか弟殺してるし。

267 :日本@名無史さん:04/05/15 22:33
>>266
そうそう。同族相食むのは源平藤家も一緒。
織田信長は尾張守護斯波家の陪臣の身でありながら織田氏宗家と
抗争して最後には尾張一国の大名へ成り上がったしね。

268 :日本@名無史さん:04/05/15 22:47
平氏を称した信長が将軍になれるわけがないw

269 :日本@名無史さん:04/05/15 23:21
織田家は本来は藤原氏を称していたらしいが、実は忌部氏だとも言われています。
ただしそれは守護代の織田家で、その奉行であった信長系の織田家が
本当に守護代家と血縁があったかどうかには?マークぐらいはつくと思います。
尾張の土豪が一族待遇を受けて姓を与えれた可能性も有ります。
実際系図についての定説はありません。
その点、先祖は流浪の乞食坊主か遍歴の職人だったにせよ、
定住してからの系図がしっかりしている(本当は家康系は宗家でないようですが)
松平の方が名家と言わざるを得ないでしょう。
家康嫌いの自分には認めたくないことですけど。

270 :日本@名無史さん:04/05/16 00:38
家康公は清和源氏の嫡流で、信長秀吉の存命中から未来の将軍候補と言われていた

271 :日本@名無史さん:04/05/16 03:03
>>269
信長公記の見解では、平資盛の遺児・親実が養子に入る前の織田神社神主家が藤原姓なので、織田信長は元々藤原姓を称していたが、のちに源平交代思想によって、実際の血縁上の姓である平姓に戻したということらしい。
これがどこまで事実かは全くわかりませんが。

ただ、信長公記の作者が信長の祖父・信定について、明らかに胡散臭いにも関わらず、これを織田敏定(応仁の乱の頃の斯波義敏の被官で尾張守護代)の子としていることが、信長系の織田氏についての様々な憶測が生まれる原因と言えます。
これは、信長の家系を少しでも織田本家に近づけるための創作なのか、それとも信定以前は本当に何も判らないので適当に名前が似ている敏定にくっつけたものなのかも、判断に迷うところです。
あと、一説には、文明年間頃の史料に出てくる織田良信という人物を信定の父に比定しようという説(根拠は信長系の通字「信」)もあります。
しかし、この良信は明らかに斯波義良(尾張守護。義敏の子)の偏諱を受けており、守護代家の奉行人クラスが守護から偏諱を受けることがあり得るのか、という疑問は消えません。

>>270
秀吉が、古河公方末裔(喜連川氏)を取り立てた理由は、家康への牽制のためという説もあるとか。
家康の胡散臭い源姓に対して、喜連川氏は鎌倉公方家直系の明らかな源姓。
秀吉からの喜連川氏宛の書状には、全て宛先に「鎌倉○○殿」と書かれていたりする。


272 :日本@名無史さん:04/05/16 03:31
>>271
>守護代家の奉行人クラスが守
>護から偏諱を受けることがあり得るのか
織田良頼もそうだから別にいいんじゃないの?

273 :日本@名無史さん:04/05/16 21:05
織田良信の読みは「おだ・ながのぶ」?

274 :日本@名無史さん:04/05/17 01:42
斯波義良の読みは「しば・よしよし」?

275 :日本@名無史さん:04/05/17 01:54
松平康安の読みは「やす・やす」?

276 :日本@名無史さん:04/05/17 06:23
豊臣秀吉の読みは「とよとみ・しゅうきち」?

277 :日本@名無史さん:04/05/17 09:40
シデキツです

278 :日本@名無史さん:04/05/18 12:39
あげ

279 :日本@名無史さん:04/05/20 14:32
あげ

280 :日本@名無史さん:04/05/21 09:17
あげ

281 :日本@名無史さん:04/05/21 14:30
ttp://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m056.html
ttp://www006.upp.so-net.ne.jp/kawaraban/hideyasu.htm
どちらかが文章パクってるみたいです

282 :日本@名無史さん:04/05/21 20:19
両方同じ本から写しただけかもよ

283 :日本@名無史さん:04/05/21 20:40
>>271
喜連川かぁー。もしその説が本当だとしたら、江戸期以降の高家入りは解せない気が。
実際高家には、吉良、畠山、武田、今川、その他明らかな源姓の家が目白押し。


284 :日本@名無史さん:04/05/22 00:21
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m056.html
http://www006.upp.so-net.ne.jp/kawaraban/hideyasu.htm


285 :日本@名無史さん:04/05/22 00:26
>>283
いや、>>271は秀吉がどう考えていたかということに対する推測であって、家康以降の江戸幕府がどう考えていたかということではないですよ。
秀吉の時代には、すでに100年以上鎌倉に住んだことのない古河公方家の末裔に対して、書状の宛所に必ず「鎌倉○○殿」と入れるのには、何か意図が感じられるってこと。

286 :日本@名無史さん:04/05/22 00:35
>>285
古河公方は「鎌倉殿」と意識されていたと言うこと。

287 :日本@名無史さん:04/05/22 00:50
>>286
秀吉の統一後の話ですよ。
この時期の秀吉が相手の苗字・居所のいづれでもない地名を宛所に冠しているのは喜連川以外にはないそうです。
古河公方の子孫を敢えて「鎌倉殿」として意識させるにしても、関東の大部分を支配下におく家康への牽制措置としての意図が読めるということらしいです。
ちなみに、これは私の先輩のドクターの人の説の受け売りなのでこれ以上詳しくは知りませんが。

288 :日本@名無史さん:04/05/22 01:57
秀吉が持ち上げた喜連川を家臣筋じゃないと利用したのが家康。
信長と組んで将軍家と敵対してるから実に都合良い。

289 :日本@名無史さん:04/05/22 02:03
公方って朝廷でしょ。

290 :日本@名無史さん:04/05/22 02:12
北条に対する牽制と、征伐後の残党への牽制みたいなのもあるんじゃないかな?

291 :日本@名無史さん:04/05/22 08:29
>>290
それもあると思う。何しろ喜連川国朝は北条が滅ぼした小弓御所の系統だし。

292 :日本@名無史さん:04/05/23 02:47
>>271
>秀吉からの喜連川氏宛の書状には、全て宛先に「鎌倉○○殿」と書かれていたりする。
そんな書状はありません。

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