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徳川幕府は何故薩長などを取りつぶさなかった?

1 :日本@名無史さん:04/04/30 14:39
そのせいで結局は自らが滅ぼされることになる。
幕府創立当初などは親藩ですら取りつぶすほどの強硬姿勢だったのに。
よく遠国の大藩だから簡単に取り潰せなかったという説もあるが、
肥後・加藤家、出羽・最上家の例もあるから、そうとは言えないと思う。

2 :日本@名無史さん:04/04/30 14:40
2

3 :日本@名無史さん:04/04/30 14:46
その他にも仙台、加賀、福岡、肥後細川など外様大藩を放置している。
これは一体どうしたことか。細川以外は有名な騒動があったから
取り潰す理由は充分だったのに。

4 :日本@名無史さん:04/04/30 15:17
幕府がアフォだったから

5 :日本@名無史さん:04/04/30 17:30
age

6 :日本@名無史さん:04/04/30 19:32
あのなぁ、薩摩と長州をつぶしにかかれば、相当な抵抗があるだろ?
結局伊達、黒田や前田は、忠誠を誓ってるが、薩摩と長州相手に、幕府が苦戦でもしたら、
反乱を起こしかねないだろ。それでさえ、関ヶ原での敵中突破で、幕府は、
薩摩にビビってたのに。上杉だって、石高減らされたけど、兵力はそのままだから、やばいだろ。
結局幕府がつぶせたのは、藩主が幼少で、戦うことが出来ないような、
力の弱い大名がほとんどだぜ。最上と加藤は、藩主が幼少だったし。

7 :日本@名無史さん:04/04/30 20:25
慶喜が腰抜けだっただけ。
小栗が将軍だったら薩長なんて潰して幕府主導の民主国家を作ったはずだ。

8 :日本@名無史さん:04/04/30 20:27
普通260年後のことなんか想定できるか?
200年以上も政権を磐石のものとしたことだけでも立派なもんじゃないか。

9 :日本@名無史さん:04/04/30 20:30
ちなみに長州は第一次だったか第二次長州征伐の後に取り潰し命令
が出てたはずですよ。もっとも、下手すりゃ幕府の方が取り潰されかねない
状況でしたが。

10 :日本@名無史さん:04/04/30 20:35
幕府開闢当初、毛利家は徳川家に従順だったし(大阪攻めのとき真っ先に駆けつけた)吉川家の取りなしもあって、潰す理由がなかった。


11 :日本@名無史さん:04/04/30 20:39
人畜無害だったから。
僻地に封じ込められた薩長が天下を左右することは事実上不可能だった。
江戸幕府にとっての潜在的脅威はむしろ伊達でしょ。

12 :日本@名無史さん:04/04/30 20:40
>>1
関ヶ原の戦後処理はもうとっくに終わっているんだから、
特に何の落ち度もないのに取りつぶしなんかしたら内乱起きるだけ
徳川がそんな馬鹿なら家康や秀忠の時代に滅んでるだろ

強いて言えば取りつぶしのきっかけを与えなかった薩長二藩が偉いってことだ


13 :日本@名無史さん:04/04/30 20:43
>>6
尾張の百姓にぼろ負けするようなヘタレにだれがびびるんだよ。
徳川は小牧長久手でその百姓を寡兵でうちやぶってるんだぜ?

14 :日本@名無史さん:04/04/30 20:49
とりあえず豊臣つぶすまでは手が出せなかった。
その後さすがの家康ももう年で気力がなくなっていて、
まあそれほど邪魔にならないしまあいいかという気分。
で自分が死んだ後、秀忠には守成はできるが強攻策は無理だと思った。
つまり現状維持なら十分有能だが、混乱を収拾する能力はないとふんだ。
などと勝手に推測。

15 :日本@名無史さん:04/04/30 20:49
>>12 そういう意味では明治新政府の戊辰戦争〜版籍奉還〜
廃藩置県の流れというのはある意味優秀な戦後処理方法だと思う。
なにしろ、一切反乱が無かったからな。

16 :1:04/04/30 23:52
>>6
いや、幕府創設当初じゃなくて、幕府の体制が固まってきたあたりで、
理由を付けて潰せばよかったんじゃないかと。
例えば仙台藩は伊達騒動が、加賀は加賀騒動が幕府の安定期に起こったわけで、
これらを理由に取りつぶすことは充分に可能だったと思われるのだ。
福岡の黒田騒動は初期だから寛大に処理したというのは分かるんだけど。

上杉だって家臣数はそのままとはいえ、
石高が大幅に減ったんだから以前のような戦力はないだろう。
これもやはり幕府の安定期に無嗣断絶にすることは余裕でできたはず。

>>9
遅すぎる改易処分だったよね。幕府に力がなくなっている時期じゃ、
命令も実効性を発揮しない。

>>14
秀忠や綱吉は改易しまくっていたが?その調子で有力外様も潰せばよかったのでは?


それから誤解のないように言って置くが私は徳川贔屓ではない。
むしろアンチ徳川である。
島津、毛利、真田などが好きなもので。
ただ、徳川が外様雄藩を潰しまくっていたらもう少し違う展開もあったのではないか、
というのがこのスレを立てた理由。

17 :日本@名無史さん:04/05/01 00:05
>>6
>藩主が幼少で、戦うことが出来ないような、力の弱い大名がほとんどだぜ
そうでもないよ。松平忠輝、忠直、大久保、小早川、筒井、福島、本多正純などの例がある。
当主が急死した小早川はまあ仕方ないとして、
その他は石高や実力はまあまああった大名ばかりだが。

18 :日本@名無史さん:04/05/01 01:06
>17
幕府初期は御庭番や裏柳生といった白色テロ部隊が元気だったからね。
時代が下るにつれてこいつらもどんどんサラリーマン化して、
命がけの裏稼業なんてやってられなくなる。
もともと幕府正規軍が動いた御取潰しなんて1件もなかったし。

19 :日本@名無史さん:04/05/01 09:20
>>16
可能だからといって、潰すとは限らないよね。
結局は当時の幕閣のさじひとつ。
で、何かあったらいつでも潰せると思っていたら、
いつのまにかに出来なくなっていた、というところではないかな。

将軍自身が政務に携わるわけではないから、
積極的に外様を潰そうと構想する人物がいなかったのは当然では。
あんまり取り潰していると、(幕閣候補の)譜代も心配になるでしょ。

20 :日本@名無史さん:04/05/01 17:30
>>19
一理ある。最上、加藤、福島などを潰したことで
一応幕府の権威を誇示できたと満足

島津・毛利などはいつでもできるから、そのうちでいいや

気がついたら手のつけられないほど強大化していた

という図式かな。


21 :日本@名無史さん:04/05/01 19:29
>>20
権威を誇示するというより、譜代の領地を確保するための改易では?出羽、安芸は譜代が入り、豊前は、加藤家改易に伴い細川家が肥後に入ったため、空国になり、譜代の受け皿になってるし。

22 :日本@名無史さん:04/05/01 19:38
外様の強国を強硬手段で潰せる程の度胸は無かったというのが実情だろう。
島津との関係を見れば明らかだ。
島津は関が原の負け組では唯一領土が手付かずで削減を免れ、
9代将軍家重の時代に下るまで、一度も御手伝い普請を命じられる事もなかった。
それまでには縁組をしきりに持ちかけ、婚儀に伴う島津側の出費を増やそうと必死だった。


23 :日本@名無史さん:04/05/01 19:39
赤穂事件で浅野本家対上杉の対立をことさらに煽って、浅野42万石と上杉15万石
を取り潰せたはずなのに。

24 :日本@名無史さん:04/05/01 19:42
でもさ、明治維新の薩長って、最終的には下級武士が藩を乗っ取るような
形だったわけでしょう。そうすると、仮に薩長を潰していたとしても、
どこかの藩で下級武士が藩を乗っ取って、倒幕に動いたんじゃないかな?


25 :日本@名無史さん:04/05/01 19:57
薩長程の大名を潰すという政策が強行される事で、どういう事態を招くかはハッキリ分からないだろう。
幕府がそれ程の実力を示す事ができれば中央集権化が速やかに進行し、封建時代はたちまち終息する。
だが史実において幕閣が懸念したように、各地の領主が反発を強めて倒幕に立ち上がるかも知れない。
流石の幕府も、反徳川連合との抗争は回避したかったという所が本音だったと考えられる。
だから弱小大名に難癖をつけては着々と潰していくという方針をとったのではないか。
そうやって少しずつ徳川一門による領地の接収を進行していけば、いつの日にか薩長すら恐れる必要も無い程勢力を強大化できる。
薩長を潰すのは、その後で良いという政策だった訳だ。


26 :日本@名無史さん:04/05/01 20:08
>>24
まあそうなる公算は高いと思うな

27 :日本@名無史さん:04/05/01 20:09
ところがその政策にとんだ蹉跌が生じた。それは慶安の変だ。
諸国の牢人の江戸流入は絶えることがなかったが、
軍学者由比正雪、同小雪が叛乱を、また、別木将左衛門も謀反を起こした。
大名家を次々に取り潰す政策は、浪人増大による社会不安の発生という
現実にぶつかり、むしろ緩和の方向へと進まざるを得なかった。
薩摩や長州のような地ばえ大名ともなればなおさらのこと。

28 :日本@名無史さん:04/05/01 20:13
関が原西軍の総大将だった毛利家が、石高を4分の1に減らされながらも、
260年後に徳川家を滅亡させるところに、歴史の面白さがある。

29 :日本@名無史さん:04/05/01 20:18
逆にいえば、薩長の下級武士たちが島津、毛利の支配に260年間も
したがったのは、薩摩・大隅における島津氏の、あるいは長門・周防における
毛利氏の支配に正統性を感じていたからだろ。
逆にいえば、徳川にいかに力があり、>>1のいうように島津と毛利を改易し、
地縁のない新興大名を薩摩や長州に配置したら、なまじ土地の武士や農民は
その大名を軽んじ、もっと早く乗っ取って倒幕に動いたという考え方もできそうである。
いってみれば、徳川が島津、毛利を改易しなかったからこそ、260年の政権が続いた。

30 :日本@名無史さん:04/05/01 20:58
>>16
徳川家康のグランドデザインが、幕藩体制であったということになるのでは?
外様であれ、親藩であれ譜代であれ、一種の自治組織である「藩」があっても
よいという、仕組みであります。
秦の始皇帝のように、中央集権体制を目指しているのならば、逐次薩長を始め
各藩をつぶしていたことでしょう。
逆に、有力藩を潰しても、代替の藩を作ったりして、直轄領化していませんから、
徳川家には、中央集権化の考えがなかったのでしょう。
これは思うに、家康が年寄りだったということによると思います。
体制の変更というのは、英雄が強権を発揮して行わなければならい。それくらいの
大仕事です。関ヶ原の戦いでNo1になった段階で、さらに体制を変更するという
大仕事は本人一代では出来そうにないし、秀忠を見たら無理そう。と判断したと
思われます。
幕末に毛利家の改易処分を命令しても、最後には物理的な武力の背景がなければ
実現できませんでした、家康後に秀忠ではできないなぁと思ったのではないでしょうか。
無論、秀忠も改易しまくっていますが、秀忠の改易対象が
福島家、田中家、最上家、蒲生家など、徳川体制になって「水ぶくれ」になった大名
ばかりです。島津家や毛利家など「戦国時代を戦い生き抜いた」藩は怖くって
潰せなかったと言うところではないでしょうか。
そもそも、中央集権の発想がなかったのかもしれません。

31 :日本@名無史さん:04/05/01 21:05
足利義満みたいに大大名を討伐しまくっていた将軍は中央集権志向だったってこと?

32 :日本@名無史さん:04/05/01 21:20
>>29
外様大藩の多くは改易されてない。前田も伊達も黒田も改易されてない。
どの藩でも内乱などなく、下級武士は藩主に正統性を感じていることになる。
薩摩は鎌倉時代から島津が治めていたけど、長州は長く大内が治めていたの
であり、毛利でなければならない正統性はない。


33 :日本@名無史さん:04/05/01 22:11
長州は初期は、経営が苦しく、領地を返上しようという動きすらあったそうな。
それだけ締付けているんだから、態々潰す必要を感じられなかったんじゃないかな?
潰して親藩を配置した場合、毛利家を顎で使う事が出来なくなり、幕府としてはマイナスかもしれない。

流石の家康も、毛利と薩摩によって幕府を潰されるとは思わなかっただろうな。
両方とも中国九州を席巻したのを忘れたわけじゃないだろうが。

34 :日本@名無史さん:04/05/01 22:11
幕府の安定期に大藩を潰す力が有ったのだろうか?
小藩潰すだけでも受け取りや転封とかで揉めた様だが。
安定期に入りつつあった島原の乱ですら あんな状態だし。





35 :日本@名無史さん:04/05/01 22:44
毛利でも島津でも、それぞれを潰すくらいの力はあっただろう。
その力関係が変化するのは、幕末を待たねばなるまい。
ただし、それぞれがボロを出さないように慎重に振舞っている毛利なり島津なりを力づくで潰してしまえば、
それを他の諸藩が拱手傍観しているとは限らない。
どれだけ大人しくしていても難癖をつけて潰しにかかってくる幕府の態度が露骨になれば、生き残った諸藩が一致団結して倒幕に傾くという流れになりかねない。
幕府が警戒したのは、そういう事態ではないだろうか。

36 :日本@名無史さん:04/05/01 22:56
そういう事態がまさに幕末の倒幕だったわけだ。


37 :日本@名無史さん:04/05/01 23:15
毛利家では、新年の定例挨拶として家臣が徳川家征伐を促していたみたいだが、
260年間繰り返した結果、実現してしまうのだから、歴史は本当に面白い。

38 :日本@名無史さん:04/05/01 23:26
薩摩でも、鎧兜姿で行軍して「チェスト関が原」と叫ぶ武士の祭りがあった。
戦いというのは、つくづく精神力の問題だという事が良く分かる。
強大な相手に対して心が折れてしまったら、その時に負けが確定するのだ。

39 :日本@名無史さん:04/05/01 23:56
とにかく全盛期でも薩摩長州の領国まで攻め込むような真似は
しなかったのに、威令衰えた幕末の長州征伐が如何に無謀だったか。
実際、全盛期の幕府軍が長州や薩摩の本領に踏み込んでも、頑強に
抵抗されれば屈服させるのは難しかったのではないか?

40 :日本@名無史さん:04/05/02 00:05
聴衆や薩摩まで幕府軍が出張していって、そこで長州・薩摩正規軍と闘って勝利しても、地かに潜伏した武士たちがゲリラ化するのを恐れていたというわけですな。

41 :1:04/05/02 00:18
>>24
だとしても、小藩と大藩では国力が違うから、
反幕になったときの脅威も違うと思う。
1万石の小大名ごときが反攻しても怖くないが、
77万石が反抗したら脅威になるだろう。
譜代みたいに、多くても10万石程度の石高に抑えなかったのが最大の失敗。

>>27
なるほど、確かにそれはある。
家綱以降は、綱吉を除いて大名改易が減ったらしいし。
確かにそのような情勢ならば大藩を潰しにくいね。

>>29
それは聞いたことがある。
薩摩は土地が荒れていて統治が難しいから、
下手に大名を変えるよりもそのまま島津を置いておいたほうがいいと
判断したという説だ。
鎌倉時代から薩摩の領主だから、ノウハウなんかもあるだろうし。

>>34
島原は松倉が無能だったからあそこまでなったと思う。
実際は単なる内乱レベルだったのだろう。


よく考えたら大藩を潰しまくっていると、足利義教みたくなってしまう可能性もあるから、
それを恐れたのかもしれないね。
また、今のイラクみたいにたとえ家を倒しても、
残党によるゲリラ攻撃が頻発する危険性もあるね。

42 :日本@名無史さん:04/05/02 00:36
なんかすっげー不思議なんだけど全盛期の幕府ですら大藩を潰せなかったのになんで草創期の明治政府に廃藩置県ができたの?

43 :日本@名無史さん:04/05/02 00:41
各藩が260年間にわたって蓄積した借金を全部肩代わりしてくれることになったから。

44 :日本@名無史さん:04/05/02 00:46
親藩が信用できるかどうかという問題もある。
御三家筆頭の尾張藩などですら、終始幕府と対立しているぐらいだし、
(幕末も尾張藩は、親幕府派の重臣十数人を切腹させ、新政府側についたくらい)
親藩を信用できるかどうかは疑問。
ましてや譜代に至っては信用できるかな?


45 :日本@名無史さん:04/05/02 00:50
鳥羽伏見の戦いでは、伏見奉行所に陣取った彦根藩兵が薩摩藩と極密に交渉して
いつのまにか撤退してしまったし、越後交通の榊原式部大輔も真っ先に寝返
ったし、あてにならない。

46 :日本@名無史さん:04/05/02 00:52
徳川自体が江戸と水戸の内ゲバで自滅したようなもんだし。

47 :日本@名無史さん:04/05/02 01:07
親藩、外様の大藩間でさかんに姻戚関係を結んだせいか
幕末は幕閣+譜代vs親藩+外様になってるからな。

48 :竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/05/02 01:38

徳川幕府は何故朝廷・天皇を取りつぶさなかった?



49 :根岸肥前守:04/05/02 01:43
征夷大将軍の任命者自身を滅亡させれば征夷大将軍の権威にかかわる。。

50 :日本@名無史さん:04/05/02 01:44
>>42
大藩を「潰せなかった」のか、「潰さなかった」のかが問題。
廃藩置県時は、反対する雄藩は存在しなかったし、御親兵が存在している。



51 :日本@名無史さん:04/05/02 01:46
>>48
質問をひっくり返して、
取り潰した場合の利点を考えてみてはどうでしょうか。
そうすれば、おのずと答えは浮かんでくると思います。

52 :日本@名無史さん:04/05/02 07:19
潜在的危機がなくなる。ただ、前田家辺りをつぶすと、幕府の借金の当てがなくなる。
利点が今一思いつかない。

53 :本多大和守:04/05/02 07:25
幕府は、取り潰すより、残して、お手伝い普請をさせたほうが利があると判断したのでは?ただ、薩摩に関しては、幕府も手がだせなかった。

54 :日本@名無史さん:04/05/02 07:42
>>42
一つには、その潰せなかった大藩の複数が連合して構成しているのが当時の明治新政府であること。
また、錦の御旗を掲げて天皇を前面に出した政府であるため、あからさまな反抗が難しいこと。
さらに言えば、その2年前にほとんどの藩が自主的に版籍奉還に応じているため、今さら廃藩を拒否する論理的根拠を欠いていた。
なんてことが言えるかな?

>>44
親藩は、将軍家にとって、ある意味諸刃の剣。
将軍家が断絶した場合に備えて存在自体は必要だが、場合によっては将軍家にとって代わろうと動く危険性もある。


55 :日本@名無史さん:04/05/02 07:45
>>31
室町幕府の場合は、自らの不始末で引き起こした南北朝内乱によって、結果的に有力大名を育ててしまった。
その後始末を将軍義満自ら行う必要があったのだろう。

56 :日本@名無史さん:04/05/02 09:51
薩摩が木曾三川の治水工事を命じられたのも、高須藩主から尾張家の後継ぎに抜擢された徳川宗勝の策だというのが当時からの通説。
八代将軍吉宗まではしきりに縁談をもちかけたり屋敷に放火を繰り返して薩摩の出費を強いる事に徹していたが、
九代将軍家重は言語障害者で意思の伝達がままならない上に、思考能力にも問題があったらしい。
そこに宗勝がつけこんで幕府の名で薩摩に治水事業の負担を押し付けた。
尾張は自腹で尾張側の堤防を補強したが、それがかえって岐阜側の脆弱な堤防に負担を増やして決壊の被害を拡大したので顰蹙を買っていた。
岐阜側に領地を持つ高須松平家が実家である宗勝にしてみれば、小藩である高須藩に尾張藩並の負担をかけたくないという思惑も働いたのだろう。
幕府も薩摩も、まんまと高須家の策士に使われたという所だ。

57 :日本@名無史さん:04/05/02 13:10
幕府を開く前の関が原の終戦処理で、西軍総大将の毛利は潰せたはず。
せめて中国地方からは遠ざけるべきであった。
薩摩は立ち回りがうまかったから無理です。

58 :日本@名無史さん:04/05/02 13:14
潰すとなると吉川、場合によっては小早川も抵抗する可能性があるから、
潰すの容易でないはず。

59 :日本@名無史さん:04/05/02 13:23
>>56
とはいえ、洪水がもたらす豊穣な土も入らなくなってしまったので
尾張側はすっかり土地が疲弊しちゃったわけですが。
まさに策士、策に溺れるという奴ですな。

室町幕府が子飼いである奉公衆と守護のバランスの上に成り立っていたように
外様の雄藩という存在は、弱小の外様や譜代、親藩にとっても必要だと
家康は判断したんではないでしょうかね?
常に仮想敵がいないと、内部分裂が始まるのは誰でも予想が付くでしょうし
雄藩が次々と潰されていったら、弱小の外様も連合して動くかも知れない。

60 :日本@名無史さん:04/05/02 14:58
室町幕府の場合、そもそも守護と奉公衆が対立構造になり得るのは畿内周辺だけじゃない?
基本的に奉公衆の所領は、その地域の守護の権力からは基本的に治外法権的な立場にある。
しかし、奉公衆の所領ってほとんどが畿内周辺(さらに言えば山城か近江)にある。
このうち、山城は基本的に侍所の兼務だから守護が世襲でない。
つまり、現実的に守護vs奉公衆という対立構造になり得るのは、近江だけ。
まあ、実際近江におけるこの対立構造が足利義尚・義材による執拗な六角征伐の遠因の一つとも言われるのだが。

61 :日本@名無史さん:04/05/02 15:26
本題に戻すが、吉川侍従の奔走で毛利取り潰しを中止させるべくしていた
わけだが、吉川侍従には東軍に参戦した豊臣恩顧大名の中にも親しい
大名がいたから、吉川侍従の泣訴を退ければ、東軍参戦大名を
徳川につなぎとめるという今後の課題に関わるから、取り潰しをやめ
ざるを得なかった。

62 :桓武平氏:04/05/02 15:53
純粋に考えて、家康は絶対薩長を潰すべきだったね。ただ、情勢的に
無理だったかも知れないけど。

63 :日本@名無史さん:04/05/02 15:56
>>62
「純粋」ってなんだ?
まさか家康に、260年後を見越せ、とでもいうのか?

64 :日本@名無史さん:04/05/02 15:59
>>61
吉川広家のおかげで、毛利家が潰されずに済んだ。
もし毛利家が潰されていたら、幕末の長州藩の活動もあり得ず、明治維新はかなり違ったものになっていたはず。
そういう意味では、明治政府は吉川家(男爵、のち勲功で子爵)にもう少し高い官位を与えても良かったのではないか?

65 :日本@名無史さん:04/05/02 16:11
藩閥政府のもとでは難しかったのではないのかね。
徳川幕府開府以来、毛利本家と吉川家の関係は微妙だっのだよ。
確か、長府、徳山、清末、岩国の四分家があったが、他の三家は
諸侯に列せられたが、岩国は、一段格下だったとかで。
藩主じゃなく、単なる領主扱い。

66 :日本@名無史さん:04/05/02 16:13
>>62
家康は豊臣家を潰す事で手一杯。
260年間もパワーバランスが保たれたのだから良かったのでは?



67 :細川越中守:04/05/02 16:19
幕府から島津侯監視役という密命を帯びていたが、あまり役に立てませんでした。
申し訳ない。

68 :日本@名無史さん:04/05/02 16:36
どうせ薩長を潰していたとて第二第三の勢力が出てきていたと思うがね

69 :本多大和守:04/05/02 17:07
細川殿、大儀。

70 :日本@名無史さん:04/05/02 17:24
>>44
尾張は将軍になれなかった恨みがあるからある意味仕方ないかも。
ある意味室町幕府における関東・古河公方状態だね。

71 :日本@名無史さん:04/05/02 18:30
>>65
そう。
藩主ではなく陪臣扱いだったから、武家華族としての叙爵基準では男爵だった。
しかし、維新政府も毛利両川復活と称して小早川家を再興させるくらいなら、最初から伯爵くらいでも良かったのに。
てか、江戸期の岩国吉川家って6万石あるから、藩主扱いだったら、最初から伯爵相当だったんだよな。


72 :日本@名無史さん:04/05/02 18:33
>>70
尾張以外に越前も親藩でありながら新政府に味方した。
この反将軍家的な傾向が強いこの2つの親藩が幕府の滅亡に手を貸したわけだ。
しかも、幕末期の尾張藩は血統的には水戸に乗っ取られているから、水戸学的な勤王思想まで流入していてさらに厄介。

73 :日本@名無史さん:04/05/02 18:36
>>71
どうせなら毛利両川を両方伯爵くらいにしても問題なかっただろうに。
薩摩は、本家とは別に久光家に公爵を与えたんだから、毛利一族の伯爵家を2つくらいつくっても釣り合いはとれる。

74 :日本@名無史さん:04/05/02 18:50
>65
幕府は藩として扱ってましたよ。

75 :日本@名無史さん:04/05/02 19:02
明治維新後の爵位に関係して、毛利宗家が吉川家をどう扱っていたかが重要なんだよ。
わかるかね?

76 :日本@名無史さん:04/05/02 19:08
>>72
もともとは尾張初代義直の影響を受けて、水戸二代光圀が勤皇派になっ
たのだよ。

77 :斉昭はドキュソ:04/05/02 19:11
勤皇派にしては、斉昭は、京都から従ってきた唐橋という絶世の美女を
手篭めにして妊娠させている。

78 :日本@名無史さん:04/05/02 19:15
毛利は取り潰さなくても、改易ぐらいはできたのでは?
西軍の総大将なんだから、現場指揮官の石田三成より戦犯度は高い。

79 :日本@名無史さん:04/05/02 19:16
取り潰さずに改易って?

80 :隠居ぢゃ:04/05/02 19:19
水戸の血筋を繁栄させる為にわしは日夜精進しておるのぢゃ。
彦根候が牛肉を送ってくれなくなってからは、精力が落ちて困っておる。
何か効き目のある強壮剤はないかのう・・・・


81 :78:04/05/02 20:26
>>79
○ 転封
× 改易
お恥ずかしい。

82 :日本@名無史さん:04/05/02 20:31
>>72
血統だけなら、会津も桑名も水戸系なんですが...


83 :日本@名無史さん:04/05/02 20:36
血統だけなら、毛利家も徳川系なんですよね。

84 :日本@名無史さん:04/05/02 21:56
>>74
岩国吉川家の扱いは、尾張や紀伊の御三家付家老なんかと同じ扱い。
だから、華族の爵位決定の際には、「維新後に諸侯待遇を受けた家」と見なされ男爵となった。

85 :日本@名無史さん:04/05/02 22:03
ウルトラマンには怪獣、仮面ライダーにはショッカー、徳川将軍家には外様。
ホドヨイ敵は、ヤリガイと存在感の源泉。特に武家政権の維持に外様は絶対必要。
ホドヨイというところがミソ。多すぎても少なすぎてもダメ。

86 :日本@名無史さん:04/05/02 22:07
ちょっと薩摩は強すぎちゃったんだね。

87 :日本@名無史さん:04/05/02 22:11
>86

参勤交代筋トレで強靭な肉体が。

88 :亀井琉球守:04/05/02 22:14
というよりも、痩せた土地をひたすら耕しまくって強靭な体躯が
出来あがったのでありましょう。

89 :日本@名無史さん:04/05/02 22:21
>88

天文学的借金を踏み倒す気力もそれか!

90 :日本@名無史さん:04/05/02 22:35
島津を国替えをしておけば、もう少し弱っていたかもな。

91 :日本@名無史さん:04/05/02 22:45
>>78
すぐは無理だろ、そんな事を要求したら、国を明渡さず、徹底交戦を選ぶかもしれない。
他の厳封されそうな藩と組んで抵抗されたら、徳川としても手を焼くだろうし、
秀頼を手中にすれば、まだ粛清していない豊臣恩顧の大名まで毛利につくかもしれない。

そもそも大阪城を明渡さずに、立てこもるかもしれない。

92 :日本@名無史さん:04/05/02 22:54
そうですよ。毛利はあの時点で、無傷だったんですから。
その毛利120万石36000の大軍と、関ヶ原から脱出した
明石全党が連合を組んで、東は備前から西は周防まで中国地方一帯で
武装蜂起したら大変なことになります。

93 :日本@名無史さん:04/05/02 23:20
改易は幕府の権威を示すもので、将軍の肉親も対象とされた。
信賞必罰的要素が強く、薩長を改易する理由がない以上不可能。

豊臣家を滅ぼしても薩長が出たように、薩長を滅ぼしても別の勢力が幕府を滅ぼしただろう。
国内に別の勢力がなければ、海外(英仏)が倒幕の役目を果たしたと思われ。

94 :日本@名無史さん:04/05/02 23:21
徳川の半分ぐらいを討ち死にさせる覚悟で徹底的に外様を根絶やしにするとしても、
メリットが無いしデメリットが大きすぎる。



95 :本願寺連合:04/05/02 23:28
いくら譜代や親藩でも大大名は困る。外様だらけでもかまわないから、
それよりも、中堅大名を細切れに拝眉するのが一番徳川にとっては理想的.


96 :日本@名無史さん:04/05/02 23:40
薩摩の弱体化についてはあの手この手が駆使されて、かなり薩摩を追い込んでいたのが実情。
だが、薩摩の必死なあがきが逆転勝利をもたらした。
むしろ共存共栄を目指し、互恵的な利権構造を構築していた方が、
幕府としては寝た子を起こさずに済んだのかも知れないな。

97 :日本@名無史さん:04/05/02 23:59
弱体化した幕府が政権を握り続けられる日本だったら、外国の餌食になってたかも。


98 :日本@名無史さん:04/05/03 00:02
>>72
越前も秀康が将軍になれなかったからねえ。
忠直なんかそれで露骨に反抗して改易されたし。

>>96
そうなんだよなあ。初期はむしろ島津と徳川は友好関係だったらしい。
本領安堵してくれたから。
しかし、木曽川工事など幕府が島津の力を削ごうとし始めたために、
だんだん険悪になっていったようだ。

99 :74:04/05/03 00:14
>75,84
関ヶ原の怨みは徳川にだけじゃなかったんですね。


100 :日本@名無史さん:04/05/03 00:15
100get

101 :日本@名無史さん:04/05/03 07:03
>>96
そう考えるとつくづく井伊直弼のアフォが余計なことさえしなければ、という気になるよなぁ

102 :桓武平氏:04/05/03 08:12
家康は、薩長が危険だっていう事は、充分解っていたはずだよ。だから、家康
が後十年生きていたらなんらかの手を打っただろうね。

103 :日本@名無史さん:04/05/03 08:59
開幕当初は薩長だけでなく伊達や前田も警戒対象だったし。
幕末の薩長の躍進の防止を家康に求めるのは酷だろう。


104 :日本@名無史さん:04/05/03 13:13
外様大藩の加藤や福島ですら難癖つけて潰したんだから、家光代までに
手を打っていれば、毛利は潰せたはず。
島津は将軍の正室を2人もだし、幕末の英主斉彬は親幕派なんだから、
倒幕派になったのはどんでん返しとしかいいようがない。

105 :日本@名無史さん:04/05/03 13:24
井伊の鈍牛(口の悪い江戸城茶坊主は、彼の事をこう渾名つげした)
は、開国政策をとることは、妥当だったとしても、
斉彬の盟友の越前侯、土佐侯、水戸侯、一橋侯を隠居謹慎処分にしたから、
斉彬は倒幕に動いた。堀田と忠固が一橋派に動き、しかも、開国政策を
断行せんとしていたわけなんだから、井伊が大老になったら、
極端な幕権回復政策など取らず、井伊幕閣を中心として、
巧妙に水戸と外様大藩を分断させつつ、井伊盟主の夕飯連合を構築すべきであった、


106 :日本@名無史さん:04/05/03 13:32
違うよ。取り潰さなかったのは単に忘れていただけだよ。

107 :日本@名無史さん:04/05/03 13:50
少なくとも1831年の防長一揆発生時に、それを大義名分として
長州藩を改易にすべきであった。

108 :久世広周:04/05/03 14:05
結局幕府が滅亡する事を回避すべく、長州藩の長井雅楽が提出した
「航海遠略策」(薩摩、加州、長州、土佐、芸州の外様大藩を
豊臣時代の五大老同様の地位に起用し、民主国家樹立)を私が、
採用し、幕政に反映させようとしたんですよ。
ところが、幕府内で反対に会い、撤回せざるを得なかったんです。
航海遠略策を採用し、長州が幕府に参加できれば、
それだけガス吹きが可能になり、長州が倒幕する事はなかった。
ところが、官位もなく、位もなく、藩主の実父にすぎない島津三郎
が、岡村喬生を引きつれて上洛し、越前藩の松平しゅんがくを大老に、
一橋刑部卿を将軍後見職に、という、政策を、
薩摩藩高輪藩邸で、同僚老中の脇坂淡路守、板倉伊賀守が、こともあろうに、老中首座のわたしに
諮ることなく、独断で決定したからね航海遠略サクは陽の目を見なかった。
安藤殿は坂下門外で襲撃を受けて重軽傷をばおうし、薩摩と長州が
連合を組む前に、航海遠略策を採用すべきであった。



109 :桓武平氏:04/05/03 14:18
薩長は、徳川家より家格があるし伊達もそうだしそういう面でもむ
難しかったかもね。

110 :日本@名無史さん:04/05/03 15:04
家康の頃は譜代や親藩が新領に就封したばかりで、旧勢力を支持する精力も強かった。
このような状態で外様相手に大々的に大立ち回りをすれば、外様を滅ぼすどころか、
譜代や親藩の足元すら揺るぎかねない。
初期は外様潰しより譜代親藩の領国支配の安定を優先させつたのだろう。


111 :日本@名無史さん:04/05/03 15:13
>107
だったら南部藩はどうなる?

112 :津軽侍従:04/05/03 15:44
考えてみれば、うちは奥羽で南部といつも揉めていましたよ。
幕末になるとバカ殿様ばっかりでてくるし。
津軽寧親と信順父子は典型的バカ親子でした。でも、近衛家や田安家と
コネがあったから大丈夫でした。やっぱり幕閣や朝廷とのコネは大事だよね。

113 :日本@名無史さん:04/05/03 17:16
鍋島はどうして討伐対象にならなかったの?

114 :日本@名無史さん:04/05/03 18:05
鍋島相姦は軍備拡大にはきょうみあったけど、倒幕自体には関心がなかった。
明治維新のときこそ、薩長土肥と称されるが、実際は日和見的尊王中立主義
というポジションに過ぎない。また、天保時代に、一部ポカもあったが、
長崎警備を幕府からアウトソーシングの形で請け負ってくれていましたので。

115 :日本@名無史さん:04/05/03 19:54
 島津は地理的に見ても討伐は困難(家康ですら実際には二の足を踏んだ)
伊達は危険ではあったが表向き臣従してるし敵にするには厄介な相手だった。

毛利と上杉は潰せたと言うが・・この両家の取り潰しも絶対不可能だったと思う。
幕府がある程度安定した時に彼等が改易処分にするといえば・・・当然抵抗する。
両家は少なくとも関ヶ原敗戦前と同様の家臣兵力を抱えていたし・・一時には
徳川前田と並んだ大老家でもあった名門。
まして上杉を改易にするといえば毛利も(逆にもいえる)身の危険を感じて
立ち上がる可能性は大きいわな。
上杉の身近には伊達政宗という危険な人物がいるわけだし
(政宗がこの混乱に講和やらで発言力を強めてしまう危険も大きい)
毛利の場合も豊臣恩顧の諸侯や残党が多いし、幕府の統制を好まない朝廷だって
おるし(徳川の外様統制に反発しないとは言い切れん、秀忠家光は相当改易にしてるし)
弾圧されたキリシタン(これも侮れません)や増えた不満浪人の蜂起も連動しないとは言い切れん。
どういうきっかけで大事になるか解らない。
上杉も毛利も実際戦って負けたという意識が低く、名門意識、大国意識が強いだけに
今度立ち上がったら関ヶ原の教訓も有るし容易く和睦や妥協はしないだろうし、
家康顕在であったときなら豊臣家も健在で政宗も暗躍しえたし、
秀忠家光の時代には御三家と朝廷という潜在的脅威があった。
毛利上杉の蜂起が大事になってこれらと連動したら幕府の屋台骨も危険。

 で家光を過ぎてしまうと、徳川三代ほどの危機感はうせるし
過失がない限り積極的潰そうと言う意欲も減退していた。

116 :日本@名無史さん:04/05/03 20:06
因みに、国替えで実質的に国力を削減するという方法も1800年代に入ると
通用しなくなってくる。荘内藩、長岡藩、川越藩の国替え反対一揆を想起せよ。


117 :日本@名無史さん:04/05/04 00:05
>>116
というか、外様系では、転封は
1619年 浅野家
1632年 細川家
この辺が最後ではないですか?

118 :日本@名無史さん:04/05/04 00:59
外様でも小藩なら、それ以降でも時々動くことがあるよ。

119 :日本@名無史さん:04/05/04 01:27
廃絶大名一覧表
http://wolfpac.press.ne.jp/main.html


120 :日本@名無史さん:04/05/04 02:15
>>29
しかしながら土佐の藩士を動かしたのは山内家の家臣(上士)ではなくて
武市ら郷士(旧長宗我部家家臣)による土佐勤皇党だったのは皮肉な話ですな。

121 :日本@名無史さん:04/05/04 03:41
佐幕かどうかを親藩・譜代・外様の別でわけるなんて、ごく初期の頃以外は基本的に無理。
幕府の側も、「譜代=信頼できる」「外様=信頼できない」などとは思ってなかったと思うぞ。

親藩・譜代・外様を分ける必要があったのは、幕政に参加できる家かどうかの区別のため。
親藩・外様は、元々将軍家の家臣だったわけではないから、将軍家の家政機関たる幕府には加わらない。
むしろ、親藩・外様にとって幕政に参加させられることは、屈辱ですらある。
幕末に松平慶永(春嶽)が老中(政事総裁職)就任を渋った理由も真相はこれ。
(ついでに言えば室町期に斯波義将が管領就任を渋った理由も同じ)


122 :日本@名無史さん:04/05/04 03:43
但し、旗本の場合は、譜代と外様の別が曖昧。
高家のように、もし大名待遇なら明らかに外様の家が、要職についていたかも知れないが。

123 :日本@名無史さん:04/05/04 03:44
>>122訂正
× 要職についていたかも
○ 要職についていたからかも


124 :日本@名無史さん:04/05/04 03:49
願譜代って制度ってものがあって、いくつかの外様大名
が(脇坂淡路守、相馬図書頭、秋田秋田城介など)志願したみたいだけど、
これってなんか意味あるんですか? 願譜代の大名で幕政に参加
した大名(老中脇坂安董、脇坂安宅)もいるにはいましたですが、
それ以外にいないですし。
願譜代すれば徳川への忠節が認められると言うならば外様大名は自家保全の
見地から、みな願譜代するだろうし。 

125 :日本@名無史さん:04/05/04 10:01
>124
朽木もそれでしたね。

126 :日本@名無史さん:04/05/04 11:10
毛利の大国意識というのが、そもそも勘違いだよ。
中国地方を治めていたのは元就が領土拡大政策を開始してから、大内や尼子
が滅んだ後の数十年間に過ぎない。中国地方全体を先祖代々の固有の領土で
あるが如く思い続けたのは、思い上がりというのものだ。

127 :日本@名無史さん:04/05/04 11:38
んな事言ったら戦国大名の全てがアウトだろ。
それに37万石っていったら間違いなく大藩だろ。

128 :日本@名無史さん:04/05/04 12:49
自分達だけは120万石クラス気取りというあたりが笑い所かな

129 :日本@名無史さん:04/05/04 15:06
外様の大大名を残すことによって周りの譜代大名に緊張感を与えて
結束させる。仮想敵国は味方を団結させますからなぁ

130 :日本@名無史さん:04/05/04 15:10
毛利だったかな。
元旦の挨拶が明けましておめでとうございますじゃなくて、
家臣が「(倒幕の)準備が整いました」と言うの。

131 :日本@名無史さん:04/05/04 15:19
そうだよ。
極秘の儀式というのがちょっとヘタレっぽいが。

132 :日本@名無史さん:04/05/04 15:22
上杉家では名家への誇りを重んじるがゆえ、会津120万石時代に膨張した
膨大な家臣団を召し放ちも行わず15万石で養っていたから、
取り潰しをすれば窮鼠猫をかむことは充分にありうるであろう。
また、上述されているように、奥州の伊達や羽州の佐竹あたりが、
先鋒を買ってでる、などといったふりをして、実は上杉とひそかに
手を握り、反徳川の外様大藩が奥州で大謀反を起こすことは充分に想定できるであろう。
白河に松平10万石を配備しているが、そんなの焼け石に水。


133 :日本@名無史さん:04/05/04 15:22
まぁ、封建制のいいところは、藩の財政がどうなろうと幕府は直接責任
を負わんということじゃないかな。そのかわり改易権は持つみたいな

134 :日本@名無史さん:04/05/04 15:57
>>130
ちょっとだけ違う
家臣が「今年は(倒幕は)どういたしましょうか。」
殿様「まだまだじゃ。」


135 :130:04/05/04 16:06
>>134 なるほど。

136 :日本@名無史さん:04/05/04 16:48
石高の差がありすぎたのが問題だよね。
譜代は10万石程度しかないのに、
数十万石の外様雄藩を抑えるのは難しい。
実際九州の押さえとして期待されたはずの小笠原は、
幕末に無様な敵前逃亡しているし。
前にも書いたけど、どの藩も10万石以下に抑えて、
勢力を拮抗させておくべきだったね。

137 :竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/05/04 17:21

大藩を分割させることはできなかったのですかいの?

藩主が死んで息子が3人残された時、幕命で無理矢理3つに分割相続
させるとか こういうのは封建思想?に反するかな?


138 :桓武平氏:04/05/04 18:08
幕藩体制が固まった後に薩長を潰すってっていうのは出来にくい。「鉄は、熱い
うちに打て」って云う様に、だから家康が後十年っていったのはそういう意味もある。
その頃は、財政的には凄く裕福だしね。

139 :日本@名無史さん:04/05/04 19:33
>>124-125
脇坂、朽木、秋田に共通するのは、関ヶ原の戦いの際の去就に不透明な点があることか?
相馬は知らないが。

>>132
その伊達や上杉が佐幕派として戊辰戦争で新政府に抵抗し、尾張・越前・井伊みたいな上方周辺の親藩・譜代がさっさと幕府を裏切るのは、歴史の皮肉としか言いようがない。


140 :日本@名無史さん:04/05/04 19:37
>>136
小笠原長行の辞世

夢よ夢
夢てふ夢は
夢の夢
浮き世は夢の
夢ならぬ夢

時代の流れについていけずに呆然としている様子がにじみ出た歌だと思う。


141 :日本@名無史さん:04/05/04 20:29
>>137
それは前漢で編み出された推恩の令ですね。
自発的のようですが初期には分封して旗本になってしまった小大名があります。

142 :日本@名無史さん:04/05/04 23:24
>>139
けど佐竹とか奥羽列藩同盟を裏切って、徹底抗戦しているから、
西軍の怨みは深かったのかもしれない。

143 :日本@名無史さん:04/05/05 01:05
>>142
佐竹ははっきり西軍に加担した訳じゃないのに、
減転封されたから恨んでいたんじゃないの?
毛利なんかも約束反故にされて裏切られたから恨みは強い。
逆に上杉は露骨に徳川に反抗したのに30万石も残してくれて、
さらに綱勝急死後も半減したとはいえ存続させてくれたから、
結構恩義を感じていたのかもしれない。
会津は親藩でしかも初代正之が家光に厚遇されてできた藩だから、
やはり恩義を感じていたのだろう。
仙台は仙台騒動の時やはり寛大に処置してくれたから(以下同文)
これら3つの藩がまとまればかなりの勢力(100万石以上)だから、
他の東北諸藩はこれにならって奥羽列藩同盟に入っただけと思われる。
実際あまり結束が強いとは

144 :日本@名無史さん:04/05/05 01:36
南部が列藩同盟に入ったから、津軽は入らなかった。
いつまでも仲が悪い両家。

145 :117です:04/05/05 03:59
>>119
良い資料ですね。
===この資料から考えたこと
ざっと見て、思いますが、関ヶ原前から支配していて廃絶されたのは
豊臣家だけですよね。それも大阪の陣という大戦争をやって。
あとは、最上家くらいかな?関ヶ原以前からの支配地にいて大幅厳封されたの。
※ 外様に限りますが。
関ヶ原関係の本で、「3000名くらいが一つの戦闘単位になる」というのを記憶しています。
3千名というと、だいたい10万石くらいの所領からの戦闘員になりますので、
幕府としても、地元に密着した戦闘能力の高い大名家をつぶすのは相当おっかない
作業になると考えていたんではないでしょうかね?

その意味で、伊達・前田・鍋島・島津などは、いじめても本気でつぶせない対象
って言なんではないでしょうか?

146 :117です:04/05/05 04:10
>>138
言い残しているかどうか分からないんですけど、可能性として
「おめーら 無理するな」
って、家康なら言い残しそうな気がするんです。
戦争の現場になれば何が起こるか分からないというのを、家康は桶狭間の戦いで
目の当たりに見ているわけではないですか。
まだ、自分は軍事的な天才と少しは思っていたでしょうが、秀忠を見たら、
「あかん こりゃ無理、戦争は 自分一代で決着着くところで 終わらせとこ」
って、考えるのが冷徹な家康なら考えそうですよね。

147 :日本@名無史さん:04/05/05 13:28
>>146
剛毅な性格の紀伊頼宣あたりが、やんちゃしちゃいそうだもんね。
でも家光の時代まで大量改易は続いたし、福島正則を改易したのは相当無理
があったと思う。

148 :日本@名無史さん:04/05/05 17:52
>>145
改易直前の最上家は、家臣団が空中分解しているような状況だったから・・・。

149 :日本@名無史さん:04/05/05 18:11
確か、単純に嫡男を後継者とすればいいのに、
徳川家に人質として預けられていた人間を後継者とした方が
徳川への聞こえがいいと、気を回して、却ってこれが
お家騒動に火をつける発端になったんだったっけ?

150 :日本@名無史さん:04/05/05 18:36
>>149
二股膏薬は、皆さんやっていたようですね。
最上家・細川家・真田家なんか、さくっと思い出します。
豊臣家と徳川家に兄弟をわけて預けていますね。その結果豊臣に出した子供は
廃嫡して徳川に出した子供が跡を継いでます。
評論家の細川隆元のご先祖は本当は嫡男だったけど、上記の理由で、家来筋にされた
なんて、前にテレビで ぶつぶつ言ってました。
血統主義で、豊臣家に行っていた嫡男を後継者にしても、その取り巻きもいっしょに
豊臣家にいたわけで、その連中が次代の藩の指導層になるかと考えると、豊臣に
行った嫡男には、「貧乏くじ引いたね」と 引導カマスしかなかったんでしょうね。


151 :日本@名無史さん:04/05/05 20:15
うーん。やっぱり敢行すべきだったよね薩摩征伐。関が原の陣のとき、
毛利家をだまして日和見させたあげく大減封させることに成功したけ
ど、相当後ろめたくかつ恨みを買っていることは自覚していたはず。
だから兵站線の確保ができないと踏んだんだろうなあ。

152 :日本@名無史さん:04/05/05 20:43
>>151
四国ルートならどうよ。外様とはいえ東軍に従った大名ばかりだから、
中国ルートよりは安全だろう。

153 :日本@名無史さん:04/05/05 20:57
薩摩は義久と義弘の考え方に違いがあって、関が原に兵を送くらず
温存してたしょ。義弘が寡兵で苦労したやん。
石田三成に味方しなかっただけの加藤清正だって隣にいるんだしさ。
徳川が薩摩に攻め込んでもむりっぽ。


154 :日本@名無史さん:04/05/05 20:58
当時は長宗我部残党など旧勢力がまだ健在でかえって
山内の領国支配すら不安定だと思うが。

155 :日本@名無史さん:04/05/05 21:11
山内が、相撲大会だか何だかの名目をつけて一箇所に長曽我部系の郷士を
あつめて一気に鉄砲で射殺しまくったとか言うのはあくまでも
伝説のようで、実際は、郷士を山内支配に妥協させるには大変な
労力がかかっている。

156 :日本@名無史さん:04/05/05 21:51
どうせなら通りがけに毛利、黒田などを次々と征伐していけばいいような気がする。
そして、最終目的島津に到着すると。

157 :日本@名無史さん:04/05/05 21:57
薩摩に闘いながら辿り着くまでにどれだけ生き残っているかだな。
毛利攻めの段階で死傷者出し捲くり&脱走&裏切りで徳川が瓦解する危険すらある。



158 :日本@名無史さん:04/05/05 23:40
>>151
薩長倒すというと、やはりチャンスは関ヶ原の時。
毛利に対して「保身のためには、島津を倒してね」
そして、島津がうまく倒れたら
「ご褒美に、島津領あげる、中国は取り上げね、一族の小早川君にあげるから」
島津が倒れなかったら
「だめじゃん 毛利君 使えないヤツは OUT、じゃ 次 加藤君行く?」
と、家康という戦闘カリスマのある段階でやるべきだったですね。
うまい具合に、秀忠に同行した徳川家の中核兵力があるわけだから。

159 :日本@名無史さん:04/05/05 23:41
なにげに良スレになってますね。

この命題って、単純なようだけど意外に徳川幕藩体制の成立過程と構造の一端を垣間見ることが
できそうな気がする。以前NHKの歴史番組でやってたけど、家康が薩摩を潰さなかったのは琉球貿易
に絡んだ要因があったらしい。漏れは見てないので詳しくは知らんけど。

160 :日本@名無史さん:04/05/06 00:02
島津が明との同盟を仄めかせて、中央に睨みを利かせていたという話かな?


161 :日本@名無史さん:04/05/06 00:33
薩摩はともかく長州は取り潰そうとしただろ。

負けたけど。

162 :日本@名無史さん:04/05/06 01:15
>>159
琉球貿易ということではなく、硬化した朝鮮を抜きにして、明と国交回復というか
交易再開というか、まぁ日明正常化の外交ルートとして 島津=尚氏=明
このラインを考えていて、琉球貿易はその反対給付として黙認した。
なんて話だっと記憶してます。

163 :日本@名無史さん:04/05/06 01:19
ちょっとスレ違いかも知れないけれど、龍馬がいなくても誰かが薩長同盟仲介をしたから龍馬はただの浪人で西郷、桂が凄いんだって
某大学教授が言ってたんだけど、学会の見解もそうなんですか?

164 :日本@名無史さん:04/05/06 01:43
>>163
学会の見解は知らないけど、小説で竜馬は評価が上がりすぎ。
竜馬は西郷の連絡係だったという説もあり。
連絡係とすると、連絡に使った西郷が偉いと言うことでしょうね。

165 :日本@名無史さん:04/05/06 03:05
K

166 :日本@名無史さん:04/05/06 04:54
>>150
細川忠興の嫡子忠隆が廃嫡になった直接的な理由は、忠隆が関ヶ原のときに母ガラシャを見殺しにして、父親に勘当されたから。


167 :日本@名無史さん:04/05/06 07:21
>>158
豊臣健在のうちは無理。浪人が増えると、大坂の陣の結果が変わった可能性も。

168 :日本@名無史さん:04/05/06 07:33
何年か前のNHKでやってたけど、島津家所蔵の文書から見つかった書簡から、竜馬が薩摩の密偵だった事を示す文章があったとか。
うろ覚えでスマソ

169 :日本@名無史さん:04/05/06 08:31
>161
北九州では細川がアームストロング砲と
ミニエー銃を擁して奮闘してました、決して一方的に
幕府側も押されてわけではありません。

170 :日本@名無しさん:04/05/06 09:40
>>164
>>168
薩摩は竜馬を単なる情報収集のため、および長州との橋渡し役と
して雇っているという感覚だったみたいだね。
しかし、竜馬はそれで収まるタマではなかった。
大政奉還策を実行に移すなど、薩摩の思惑通りに操縦できる人
ではなかったんだよ。それが、彼が殺された理由の一つではないかな。

171 :日本@名無史さん:04/05/06 11:31
坂本竜馬っていうのは単なるハッタリ、大風呂敷広げるインチキすれすれの人物だったんじゃないの
たとえて言うなら、アスキーの西和彦が
「パソコンの統一規格を作りましょう。MSXです。」って言って
パソコンメーカを口説いて回って、各メーカも断りきれずにしぶしぶ乗っちゃった
みたいな感じで


172 :日本@名無史さん:04/05/06 11:40
確かに竜馬は西和彦っぽい。
実力者たちの力を生かして何かをしでかす世渡りの才能なんかが。
でも本人は、実力者たちから用済みになった途端に放りだされちゃう。

173 :日本@名無史さん:04/05/06 11:43
>>167
逆に反徳川の浪人を一挙に葬れるチャンスともなり得るが。
家康が生きているうちにやばそうな芽は徹底的に潰しておき、
その残党が豊臣に集まり、豊臣を盟主として徳川に反抗する。
で、それを一挙にまとめてあぼーんする。

174 :日本@名無史さん:04/05/06 12:13
おめぇら大事な事を忘れてるな。

薩長が大見得切って倒幕できるようになったのは
参勤交代が廃止された事が一番の要因だぜ

175 :日本@名無史さん:04/05/06 12:19
>>173 しかし大坂の陣でも逃散した浪士組も多かったからねえ。
大野治長は、「豊臣家はっ、浪人衆を養う為に、戦をしているのではないっ」
と激昂したとき、浪人組の士気は一気に減殺されたであろう。

176 :日本@名無史さん:04/05/06 12:59
幕末になると、閣僚格の小笠原図書頭が将軍慶喜に、長州大打ちこみ、薩摩大打ちこみを提言
しててるのであります。
「いっそのこと、薩長の倒幕の準備が整う前に、攻めこんではいかがにございますか」
「何百万両と言う費用がかかる。その費用はどこから調達するのだ」
「短期決戦ならば、なんとか都合つきます」
「長州薩摩は遠いのじゃ。まして地元の有利さもある。百姓町人までもが
われらを憎み、必死になって闘うであろう」
「小笠原」
「はい」
「そのほうは、小倉で長州軍にまけて逃げ帰ってきたではないか。薩長の
強さ、幕軍の弱さ、譜代大名の気概のなさを充分に弁えているはずじゃ」


177 :日本@名無史さん:04/05/06 13:11
ところで本題に戻すと、こんな考え方も出来ると思う。

有力大名の温存や天皇の温存から考えると

   織田信長が目指したような  中央集権による絶対制  ではなく

   徳川家康がめざしのは、幕府と諸藩の連合による  ”藩幕体制”

だったと思う。

きっと、中央集権による絶対制を目指した織田信長が本能寺の変で倒された事実から

 1)織田信長の様に領主を官僚化して領地と切り離し、中央から任命し、任地を簡単
   に変えようとすると、地侍を抱える領主が謀反する

 2)安土城で自らをかたどった像を家臣に拝ませたという織田信長は、天皇に代わる
   存在を目指しており、朝廷が反発して本能寺の変をそそのかした(と言う説もある)

と考えて、さらに、後継者の秀忠の力量(関ヶ原の戦いに遅れて叱責を受けている)から
無難な藩幕体制を家訓にしたと思う。

だから、藩幕体制の中で幕府の地位を強化するために

 1)ある程度大名へ圧力をかけるが

 2)体制を揺るがす(体制を賭ける)程の圧力はかけない
   (つまり雄藩の取りつぶしはしない)

と言う方針を貫いたと思う。 (幕末は幕府の存亡がかかっていたから長州征伐をした)

もし、中央集権による絶対制が完成してたら、ヨーロッパのように江戸時代に海外に進出
して、東南アジアやオセアニアや南米に植民地を持っていたかもしれない。

178 :日本@名無史さん:04/05/06 13:24
なるほど。幾ら全国を徳川を塗りつぶしたところで、結局官僚を派遣して
現地行政を担当させざるを得ず、往々にして土着化し、守護大名化した
室町幕府の二の舞が想定されるから、地元にある程度顔のきく既存大名を
温存して自治権を見とめ、ただ、幕藩体制を揺るがすような失政や謀反があった場合だけ
個別に改易や減法という手法が現実的だったんだろうな。

179 :日本@名無史さん:04/05/06 14:19
池田氏が三河吉田15万石→関ヶ原の戦い→播磨姫路52万石→小早川氏改易滅亡→備前、淡路、播磨
87万石に膨張してしまった→藩主が幼少だから「姫路宰相」「西国探題」の任務に耐えず、
との理由で、備前32万石、鳥取34万石に分割してしまったように、
毛利、島津も、総石高はそのまませめて分割や分与を強制して
実質的に細分化を強いるという手法は取れなかったものかな?


180 :日本@名無史さん:04/05/06 22:49
>>167
だから、関ヶ原終了直後が後から考えると、薩長(の少なくてもどちらか)をつぶす
絶好の機会であったと考えるわけです。
直後であれば、指揮系統がばらばらで、反徳川として結束の機会は無し。
大坂城に家康は乗り込んでいるわけですから、秀頼の命令だ!とも強弁できます。

181 :日本@名無史さん:04/05/06 23:05
>>177
やっぱり、20年にわたって同盟者として付き合ってきた信長の生き様死に様は
じっくり見て学習したんでしょうね、家康。
信長の生き様は、同盟の裏切られの歴史で、最後は部下に殺されちゃう。
自分が土地粘着な部下とともに育っただけに、「信長さん それ いきすぎ」
って 思ったんじゃないでしょうかね 中央集権に対する 在地領主の反感の強さ。

182 :日本@名無史さん:04/05/06 23:16
>>179
島津に対しては、秀吉がそういった揺さぶりをかけていましたね。
大隅と薩摩を兄弟でわけろとか。
島津四兄弟に付けいる隙がなかったというのと、関ヶ原の前に伊集院忠棟を
庄内の乱で潰しておいたので、徳川としても付けいる隙が無かったんでしょうね。
毛利に対しては、秀吉の段階で小早川分離に成功。
秀元・秀包あたりが結構、自粛したんでしょうかね?家康からの揺さぶりもあっておかしくないですが。

183 :日本@名無史さん:04/05/07 08:09
>>177
織田信長が最終的にどういう政治体制を目指していたかは、不明確な部分が多いが、少なくとも、皇室の存在自体を消すようなことはないと思うよ。
とりあえず、足利義満の時代ならともかく、戦国末のあの時点で皇室を潰すことにメリットがあるとは思えない。


184 :日本@名無史さん:04/05/07 15:30
薩摩征伐は無理でしょうなにせ正規の幕府の使者以外は鎖国していて
内情はまったくわかっていませんし
いざ戦となったら九州は海外貿易にも有利ですから
大砲など輸入されて抵抗されたら下手したら
幕府側が負けかねないですね。


185 :日本@名無史さん:04/05/07 16:23
サシで勝負すれば徳川が勝つだろうが、
死に物狂いで戦う島津勢の恐ろしさは天下に鳴り響いているので、
実力差以上の恐怖感を払拭出来ない徳川勢がアウェイで圧勝するのは難しい。
徳川がボロボロになりながら島津を壊滅に追い込んでも、その直後に他の勢力から袋叩きにされる危険がある。

186 :日本@名無史さん:04/05/07 19:17
>>180
関が原の時点では、秀頼は6歳。豊臣家は事実上淀君がトップ。
島津征伐に大義名分がなく、福島正則らが従うとは思えないし、黒田官兵衛も危険。
毛利に関しては潰すことが可能だった。西軍の総大将で、五大老のライバルでもあった。
30数万石に減らした時点で徳川家と10倍の開きが出たから、安心したのだろう。

187 :日本@名無史さん:04/05/07 19:25
絶妙のパワーバランスのもとで、江戸幕府は260年続いた。
薩長が存在しなければ、パワーバランスが崩れ、50年も持たなかった可能性がある。
 
三国志の魏は、皇族に権力を与えなかったため、司馬氏に乗っ取られた。
司馬氏の晋は、皇族に権力を与えすぎたため、八王の乱が起こり、異民族に乗っ取られた。
鎌倉幕府は、将軍に権力が集中したため、将軍の親族である北条氏に乗っ取られた。
太平洋戦争で、アメリうカは日本を完膚無きに潰したため、ソ連・中共と対峙することになった。
 
薩長を潰せば、御三家の勢力が強まり、尾張家あたりが反乱していたかも知れない。
もしくは幕末の際に、海外勢力(英仏)に乗っ取られた可能性がある。

188 :187:04/05/07 19:27
訂正
×アメリうカ
○アメリカ

189 :日本@名無史さん:04/05/07 19:41
話は逸れるが、豊臣家は>>187「三国志の魏」パターンで滅亡。
秀頼可愛さに秀次を死に追いやった。
家康〜家光は、歴史をよく勉強していたと思われる。
「過ぎたるは及ばざるが如し」
「敵を愛せよ」

190 :日本@名無史さん:04/05/07 21:09
>>187
幕末に英仏が、日本を乗っ取ろうとしたという話はちょっと違うと思うけどね。
日本を支配するのに、かの国からして、魅力的な国には見えなかったようだ


191 :日本@名無史さん:04/05/07 21:27
>>190
植民地にする尺度が「魅力的」なら、アフリカ分割はどう説明するのだ? サハラ砂漠は?
クリミア戦争とアメリカ南北戦争の隙に開国し、日清・日露戦争を経て植民地化の危機を脱した。
薩長が幕末になければ、明治維新が起こらず、東アジアはロシアの植民地になったと思われる。



192 :日本@名無史さん:04/05/07 21:30
明治維新最も貢献したのはそのつもりがあったかどうかは別として薩長ではなく水戸といわれるが。


193 :日本@名無史さん:04/05/07 21:40
ロシアにとって日本の魅力は「不凍港」
満州、朝鮮半島に進出するが、日露戦争に敗れてから、バルカン半島へ矛先を変えた。
明治維新のない日本であれば、
世界覇権を守る海洋国家イギリスが日本と南鮮を勢力下に収め、
満州・北鮮に勢力を進めるロシアと衝突しただろう。
その隙にドイツが勢力を伸ばし、第一次世界大戦は、英仏米vs独墺露伊土となる。

194 :日本@名無史さん:04/05/07 21:47
>>192
ソースきぼん
常識的には「維新の三傑」として
西郷隆盛カ(薩摩藩)
大久保利通(薩摩藩)
木戸孝允(長州藩)
が挙げられるが。

195 :日本@名無史さん:04/05/07 22:24
討幕を実行した薩長が目立つのは当然だが、その下地を築いてしまったのが水戸だと、
幕臣・旗本は批判的に、新政府側は肯定的に主張しているが。


196 :日本@名無史さん:04/05/07 22:26
徳川をアメリカと例えるなら、
関が原の戦い(冷戦)で天下を(世界覇権)を握る。
徳川家(アメリカ)の天下(世界覇権)に挑戦できるのは豊臣家(中国)。
経済的、政治的に豊臣家を追い詰め、大阪夏の陣で葬る。
以降260年は徳川(アメリカ)の天下となる。
しかし260年後に薩長(ブラジル・インドネシア)が徳川(アメリカ)を滅ぼすなど
夢想だにしなかった。


197 :日本@名無史さん:04/05/07 22:46
>>195
その言い方であれば理解できる。
桜田門外の変は水戸浪士だし、大政奉還の徳川慶喜は水戸藩出身だし。
薩長と水戸がなくても、徳川幕府は滅んだと思うが。



198 :日本@名無史さん:04/05/07 23:03
薩摩=ロシア・中国
長州=イスラム勢力

199 :日本@名無史さん:04/05/07 23:18
仮に日本全国全部徳川天領&親藩、家門、譜代で固めたとしても、
執権北条氏みたいなやつが乗っ取る公算高し。
上でも触れられているように、ある程度仮想敵国を作っておくことで、
親藩・譜代の結束を固めると。
シーマンヅ、モーリ、はその敵役なり、と。

200 :日本@名無史さん:04/05/07 23:29
30万石以上の外様大名は
伊達56 上杉30 前田102 藤堂32 池田32
浅野38 毛利37 黒田43 鍋島36 細川54 島津73
全国3000万石のうち、天領400+旗本知行地300=700万石が徳川

201 :200:04/05/07 23:40
>>200
石高をGDPと置き換えると、アメリカの占有率は徳川と同じ。
以下、日本300万石 ドイツ130万石 イギリス100万石 フランス100万石
イタリア85万石 中国85万石 韓国35万石 ロシア30万石
薩長の勢力は、経済で例えると中国+ロシアレベルだな。

202 :日本@名無史さん:04/05/07 23:54
政治勢力的には
ドイツ=水戸
イスラエル=彦根
フランス=尾張
イギリス=紀州
でアメリカ直轄地ではないし。
まあ日本=会津ぐらいが血だるまになるまでパクス・アメリカーナに殉じるかもしれないが。


203 :日本@名無史さん:04/05/08 00:02
現代世界を17世紀初頭の日本列島に置き換えると、
現代米国=徳川に対して
現代日本=前田+島津+伊達+毛利+上杉位の規模の勢力になるのか。


204 :日本@名無史さん:04/05/08 00:07
これからの日本は会津よりも薩摩になって欲しいものだな・・・
獰猛なアングロサクソンと渡り合う為には。

205 :日本@名無史さん:04/05/08 00:12
薩摩や長州は水戸を焚きつけて徳川の内部にかなりの打撃をあたえた。


206 :日本@名無史さん:04/05/08 00:34
徳川が薩長を潰さ(潰せ)なかったのは、田中角栄が竹下を潰せなかったのと
同じ理由だ。
幕府が全国を天領化しなかった(できなかった)のは、小泉首相が派閥を解消できないのと
同じ理由だ。

ちったあ アタマ使えよ。

207 :日本@名無史さん :04/05/08 00:38
>>204
会津はむしろ反面教師ですよ

208 :日本@名無史さん:04/05/08 00:59
>>206
まったく説明になってないよ。

209 :日本@名無史さん:04/05/08 03:10
>>205
水戸を真っ先に攻撃したのは大老井伊直弼ですが。なにか?

210 :日本@名無史さん:04/05/09 00:32
>>200
旗本知行地は、幕府領にカウントしないほうが良いと思うよ。
旗本のすべてが譜代というわけじゃない。
大身の旗本には、大名待遇なら明らかに外様に分類されるはずの家が多い。

211 :日本@名無史さん:04/05/09 00:52
>>209
その井伊は、鳥羽伏見の戦い前(小御所会議のとき)から薩長と行動をともにしていますが何か?


212 :日本@名無史さん:04/05/09 21:56
井伊=彦根藩が薩長に帰順したのは
やはり桜田門の変の黒幕に慶喜がいたと
感じたんじゃないの?
阿吽の呼吸というやつで。
元々直弼と慶喜は仲もよくなかったし。

213 :日本@名無史さん:04/05/09 22:01
毛利に関しては潰すことが可能だった。西軍の総大将で、五大老のライバルでもあった。
30数万石に減らした時点で徳川家と10倍の開きが出たから、安心したのだろう。

油断大敵ですなぁ。
家康も西国に譜代を配置して押さえにしたのに260年後まったく役に
たたず、御三家、彦根、桑名等々みな反旗ひるがえされて
以外や以外徳川を守ろうと尽力したのは東北の列藩たちであった。


214 :ふっふっふ:04/05/09 23:44
対毛利の最前線に配備されていた石見浜田
の越智松平家をついだのは、慶喜の異母兄弟だったのに、浜田藩は士気が
殊の外低く、敗北しております。
毛利と徹底的に対立しまくっていた尼子旧臣の末裔津和野10万石亀井家は毛利とさっさと同盟していたって本当?


215 :日本@名無史さん:04/05/10 00:52
農相のとこでつか。

216 :日本@名無史さん:04/05/10 01:04
亀井久興(河野グループ)は、元国土庁長官でしょ。
現農相の亀井善之とは無関係。

217 :日本@名無史さん:04/05/10 01:18
>213
列藩同盟は徳川じゃなくて会津の赦免を求めたのでは

218 :日本@名無史さん:04/05/10 01:26
徳川内府、天朝に対し二心無きは、天下万民の知るところなり。
たとえ真勅よりでるとも、もとより不正、いわんや、天子幼沖、姦臣権を盗み、名義を借りて追討の命を下す。
その罪姦臣にあり、しからば即ち官軍は不義なり。
皇国天子の至尊なるも、王政正しければなり。
いま不義をもって義を討てば人倫滅却す。
天下後世この政を何とか言わん。
長州は真の朝敵国賊、天戮を免れざる者なり。
一朝姦臣とともに、天子を欺き、昨日の朝敵は今日の官軍、その姦作ほとんど悪むべし。
実に薩長の不義無道なる、その不義をもって義を討せしむ。
嗚呼王政の衰えたる、この時より甚だしくはなく、誰か天下の不正を正さん。
国賊を討つはただ衆諸侯のみ。
いま会津藩の義気に感じて属するもの多きは大義を知ればなり。
官軍に属するものは、人面獣心、不義より甚だしきはなし。
たとえ、しからずとも不義は義に勝たず、邪は正に勝たざるは自然の利なり。
願わくば、天下有道の士、会藩の義気を助け、徳川氏のために義兵を挙げ、かの国賊を誅戮して、万民を水火の中に救い、皇国の名分を正せよ。

219 :日本@名無史さん:04/05/10 01:28
>徳川内府、天朝に対し二心無きは、天下万民の知るところなり。

だったら、領地を返せっつー話。


220 :日本@名無史さん:04/05/10 01:32
>>217
きっかけはそうなんだけど、そのうち、
薩長は幼い天皇を欺いて不正の乱を起こした賊徒であるという認識に変わった。
徳川擁護というより、目先の賊を討つべきということでしょ。

221 :日本@名無史さん:04/05/10 01:33
>217
そうですよ。



222 :日本@名無史さん:04/05/10 01:43
豊臣滅ぼしているんだから因果応報。
子孫いるだけマシつーか
今でも勝ち組みじゃん。
何の不満があるんだか。

223 :日本@名無史さん:04/05/10 01:49
>>219
それは小御所会議で容堂に論破されてないか? なんで徳川家だけ領地を返納せなならんのだって。

224 :日本@名無史さん:04/05/10 01:53
>>212
井伊大老が暗殺されると、返り咲いた慶喜は暗殺者の処罰よりも、
伊井家に対する報復のほうに熱心で、
10万石を削ったり老中を削封して処罰してる。
これで彦根が慶喜の味方をするわけがない。

225 :日本@名無史さん:04/05/10 01:54
慶喜は器が無い。まったく無いな。

226 :日本@名無史さん:04/05/10 01:59
>223

いや、10万石そこそこに天皇を押し込めといて・・・という話。
何も、全部返せではない。


227 :日本@名無史さん:04/05/10 02:04
大体、250年も禄をもらってた旗本の幕末のていたらくときたら・・・。
犬の方が忠義心あるね。

228 :日本@名無史さん:04/05/10 02:05
>>224
彦根の京都守護の解任と減封は他ならぬ朝廷の要求ですが何か?
慶喜・春嶽は将軍後見職・政事総裁になったものの、名目だけで
実権は依然譜代連中が握っていましたが何か?


229 :日本@名無史さん:04/05/10 02:21
>>223
容堂は小御所会議のとき泥酔していたらしい。

230 :日本@名無史さん:04/05/10 02:26
鯨酔候だからな。

231 :日本@名無史さん:04/05/10 02:31
慶喜は水戸の子だし、将軍になった時から幕府の維持なんて考えていないでしょう。

232 :日本@名無史さん:04/05/10 02:41
鳥羽伏見の戦いからしてやる気なかったしねぇ。

233 :日本@名無史さん:04/05/10 02:51
「酔って候」  by柳ジョージ

♪土佐の鯨は 大虎で〜 腕と度胸の男伊達〜
いつでも 酔って候〜♪

酒と女が 大好きで〜 粋な誌で雪見詩〜
いつでも 酔って候〜♪

鯨海酔候 無頼酒〜
鯨海酔候 噂の容堂〜♪


234 :日本@名無史さん:04/05/10 02:59
大阪から軍艦で逃げるときに同乗させていたのが、会津(オマケで新選組)、桑名。
徳川の旗本衆は置き去りで紀州へ。

慶喜君は自分の立場をわきまえていたといえる。

235 :日本@名無史さん:04/05/10 03:02
武田鉄也&小山ゆうの容堂像は酷い代物だったな。
土佐勤皇党の武市を誘って自害せしめた一件は
以蔵が武市に利用されたことを悟って全て吐いた事が
原因なのだが。
郷士支配の実態は漫画どおりかも知れないし、
人権板の死国スレを見る限り高知は非常に藩による同和
政策が強い地域であるのは事実だが・・・。

236 :日本@名無史さん:04/05/10 03:34
>>234
まともにやり合ったら
戦況は泥沼化し、侵略されるから
慶喜は引いたんだよw



237 :日本@名無史さん:04/05/10 03:58
引いても上野彰義隊は惨死したし東北では屍を弔う事すらゆるされず
蝦夷へ左遷だけどな。
引こうかどうしようが薩長は侵略以外にかんがえてなぞいないわけで。

238 :日本@名無史さん:04/05/10 04:44
しかし御三家と譜代随一の大身である彦根が離反する幕府って
もう見限られているも何もあったもんじゃないな・・・・。
滅びるべくして滅んだとしか形容できない。

239 :日本@名無史さん:04/05/10 09:30
>>237
幕府も捕虜にした尊攘派を問答無用で殺し捲くっていたし、その辺はどっちもどっちだろう。


240 :日本@名無史さん:04/05/10 10:29
ジュネーブ条約なんか無い時代だからな。
現代でも米軍ですら守っていないんだし
有名無実だよね。

241 :日本@名無史さん:04/05/10 10:36
>>237
そうじゃなくて、外国に侵略されるだろ
イギリスとかフランスとか、日本を半分づつものにしようと企んでいたんだから


242 :日本@名無史さん:04/05/10 10:46
内戦の長期化は列強の分割支配の餌食になる可能性は高いだろうな。
インドやアフリカでの支配策をみてもわかるように連中は1、2世紀かけて
土豪の内訌に生じて植民地化を勧めているケースが多い。
インドなんか気がついたら全土植民地化されてんだが、2世紀ぐらいかけて
完成しているわけで。

243 :日本@名無史さん:04/05/10 11:04
>>241 確かに幕臣小栗上野介なんかは、英国の金と火力を頼りに
征長を計画していたらしい。

244 :日本@名無史さん:04/05/10 12:54
仏蘭西=幕府
英吉利=薩長だと思うが。

245 :日本@名無史さん:04/05/10 14:35
なぜ幕府は門司と下関を天領にしなかったのだろう?
関門海峡を押さえることの重要性を家康が理解しなかったとは
思えないのだが。

246 :日本@名無史さん:04/05/10 14:37
まさしく油断大敵っすねー
石高を30万石にしたから大丈夫や!と思ったに違いない。
俺が天下取った暁には徹底して反対勢力を根絶やしにするので
覚悟しておけ

247 :日本@名無史さん:04/05/10 15:18
関が原直後から幕府初期の徳川の政策がこのスレの主旨じゃないか?
>>1を読むと、幕末のことは関係ないような気がする。
もし幕末に幕府が強権を発動したところで取り潰しなんて無理に決まってるし。

248 :日本@名無史さん:04/05/10 15:20
実際無理だったのだが。
長州改易失敗〜

249 :日本@名無史さん:04/05/10 16:20
>>247
>>1の主張は
>徳川幕府は何故薩長などを取りつぶさなかった?
>そのせいで結局は自らが滅ぼされることになる。
なのだから、幕末と関係あり。
命題を分けて考えると
T 徳川幕府は何故薩長などを取りつぶさなかった?
 @何故薩摩を取り潰さなかったのか?
  a関が原後 徹底抗戦が予想され、自らの体制が危うくなるから
  b家光の時代まで 取り潰す理由がなかった
  c幕末 幕府に力がなかった
 A何故長州を取り潰さなかったのか?
  a関が原後 取り潰すつもりだったが、吉川の功績で30数万石程度の所領を許した
  b家光の時代まで 取り潰す理由がなかった
  c幕末 幕府に力がなかった
U 薩長を取り潰さなかったから、江戸幕府は滅びたのか?
  逆に言えば、薩長が健在であれば、江戸幕府は存続していたのか?
  答えは否。慶喜や御三家に幕府を守る意志が見られなかった。



250 :249:04/05/10 16:24
>>249 訂正
×逆に言えば、薩長が健在であれば、江戸幕府は存続していたのか?
○逆に言えば、薩長を取り潰していれば、江戸幕府は存続していたのか?


251 :日本@名無史さん:04/05/10 16:33
毛利家を死守する為に分家の吉川は徳川に引っ付いて
た訳だからね。家康としても簡単に征伐軍を出す訳に
はいかないからね。

せめて家光期に土井、松平伊豆らが周防守を危険視し、難癖つけて
れば15万石位に落とせたかもね。
上杉家の例もあるんだし

252 :249:04/05/10 16:37
前提条件「薩長を取り潰さなかったせいで、結局は自らが滅ぼされることになる」が誤りなら
どの程度取り潰せば良かったかを検証する必要がある。
御三家の水戸と薩長土肥がなければ良かったのか、天皇を廃止すれば良かったのか?
パワーバランスが史実の異なった場合、プラスに働くのか、マイナスに働くのか?
共通の外敵を失うことで、御三家との争いが起きるのか?
いずれにせよ、単純に薩長を取り潰せば良かったという結論にはならないはず。

253 :日本@名無史さん:04/05/10 16:43
>>251
関が原で東軍の先鋒を務めた功労者、福島正則ですら一度安芸に封じた後で
難癖つけて改易したのだから、毛利にも同じ手を使えたのでは?

254 :竹田丹後守/高槻 ◆gVkD2onhQc :04/05/10 16:51
>>251
石田方が勝っていたら、毛利本家は250万石くらいに加増になったん
とちゃうか(+豊臣家顧問) 小早川が100万石+暫定関白
吉川は当主と嫡男の首が刎ねられて、代わりに毛利の誰かが当主の
座に就く それで本領安堵(30万石) 毛利一門で400万石

実際、もうちょっとのところで石田方が勝ちそうやったしな

毛利は「吉川が余計なことをしくさりよった」と思うてたんとちゃうか

255 :竹田丹後守/高槻 ◆gVkD2onhQc :04/05/10 16:53
>>254
悪い >>254は見当違いのレス


256 :日本@名無史さん:04/05/10 16:56
>>252
家康は兵力を動員出来る目安が太閤検地によって明らかになり
石高をもって諸侯の論功報奨に繋げる手法を受け継ぎ、
関が原後の戦後処理の参考とした。
その事自体は当時の時局から打倒ではあったが、
幕末は家康が想定しなかった欧米からの技術革新による軍制度の
変革による軍事力の増大化までは想定できなかった事が1つ。
同時に将軍位にあった慶喜をはじめ譜代、御三家にいたるまで
幕府の社稷を死守する気が無かった事。
思うに将軍という従来の君臣の序列に対し、実権を失って久しい朝廷と
いう別の求心機軸が幕末に再興した事と無関係ではないだろう。

要は関が原後の石高を激減し、周囲に譜代を配置すれば西国勢力の
抑えとなるだろうという戦略が時の流れと共に風化し、幕府も家康の
諸政策を変化する勇気がなかなか出なかった事も大きい。
仏蘭西から軍事顧問を招き兵制改革を図ったが、結論から言えば
失敗に終わったという視点が大事だと思われる。

257 :日本@名無史さん:04/05/10 17:06
>>253
毛利家は、関が原で潰すことが可能だった。負けた西軍の総大将なのに存続しているのは不自然。
@関が原当時のライバルは、毛利、上杉、前田、宇喜多で、西軍の毛利、上杉、宇喜多は大幅な減封及び改易。
A関が原後のライバルは豊臣家で、難癖をつけて大坂夏の陣で滅ぼす。
B以降は武家諸法度に違反した大名を、将軍の親族であろうと処罰し、幕府の権威を高める。
こうして考えると、薩摩を取り潰すチャンスはなく、長州を取り潰すチャンスは@関が原後だけだった。


258 :日本@名無史さん:04/05/10 17:21
>>254
毛利の行動は不可解。
隆元か元春か隆景のいずれかが存命なら天下を取れたはず。
天下が目の前に転がり込んで、見逃して、取り潰されるところを30数万石残されたのだから、
輝元は馬鹿としか言いようがない。
小早川秀秋も東軍に寝返らず、家康を攻撃していれば、関白になれたのでは。
まあ後世からの「たら・れば」は禁句だけどね。

259 :日本@名無史さん:04/05/10 17:26
関ヶ原合戦のとき、毛利と小早川の間に横の連絡はあったのかな。

260 :日本@名無史さん:04/05/10 19:24
そのへんは、みなもと太郎の「風雲児たち」が詳しいと思うが。
西軍に勝ち目がないとみた吉川が勝手に行動して、関ヶ原でわざと動かず戦闘に参加せず。
だから徳川も、毛利を完全には潰せなかった。
萩のちっちゃい城に押し込めて(大きな城を建築することは許さず)毛利を生かした。



261 :日本@名無史さん:04/05/10 19:25
漫画の信憑性なんかどの程度あるんだろうか


262 :日本@名無史さん:04/05/10 19:30
260年もったんだから上出来ではなかったかと。
しかし毛利はつぶさなくても領地を山陰とか出身地の安芸の一部ぐらいにしとけば幕末でも
大した脅威にはならんかった気がする。

秀吉は存命の内に、徳川を総力挙げてでも滅ぼしとくべきだったが。


263 :日本@名無史さん:04/05/10 19:42
自分が秀吉ならばこの家康を滅ぼすとは
家康自身が考えたと思われ。
でなきゃあそこまで強引に大阪の陣を
起こすわけが無い。自分の死後に豊臣家が
盛り返す事は十分ありえると考えていたのだろう。
現に自分が豊臣に臣従しながらもここまで来たのだからというところか

264 :日本@名無史さん:04/05/10 20:34
>>263
秀頼が臣従してたら豊臣は残ってたって言わない?

265 :日本@名無史さん:04/05/10 21:36
どうかな〜家康は慎重を期す男だから豊臣恩顧の武将たちが
次々と改易されていったように家光までの間につぶされてそうだと思う。
他の諸侯とちがって家康自身が臣従した男の息子だし
自分の死後第3者に担ぎ出されない保証は無い。
かつて秀吉が吉法師を擁立して織田政権を簒奪した前例を
つぶさにみているし。

266 :1:04/05/10 23:15
>>247
1ですが、大体その通りです。
正確には幕府権力が発揮されていた中期くらいまでを想定して、
スレを立てました。
幕末はとてもじゃないけど、無理だと思うので、
論議する必要はないかと思います。

>>249
>そのせいで結局は自らが滅ぼされることになる。
という一文は徳川が初期または中期あたりに必要な処置(改易)を怠ったために、
こんなことになってしまったよ、程度のつもりで書きました。

267 :日本@名無史さん:04/05/11 00:28
とりあえず、島津については無理だということで結論が出ているようなので、毛利についてまとめ。

1.関ヶ原後に毛利を完全に改易することは可能だったか?
(その場合、約束を反故にされた吉川をはじめとする毛利一族が全ての所領をすんなり明け渡すか?)

2.関ヶ原後の毛利改易が無理だった場合、毛利の所領として防長2ヶ国を残したのは妥当だったのか?
(何故家康はこの2国を毛利に残す地域として選んだのか?)

これが議論のポイントだね。


268 :日本@名無史さん:04/05/11 00:53
>>267
相手を完全に叩き潰そうとしたら、抵抗されて返り血を浴びる危険があるじゃん
豊臣秀吉が四国を統一した長曽我部に対して「土佐以外をすべて放棄するなら許してやるぞ」と
言ったようなもの
落とし所としては妥当だろう

伊達政宗も、実は家康が死んだらいつか取って変わろうという野望を捨てていなかったが
「息子の秀忠を補佐してやってくれ」とうまいこと懐柔した


269 :日本@名無史さん:04/05/11 01:23
>>268
窮鼠猫を噛む
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m202.html
これを見ると、大物で改易になっているのは
青木・石田・宇喜多・長宗我部あと毛利の一族 この程度が おおよそ20万石程度以上
石田・宇喜多は主犯だから、世論(ていうのか、当時の武将達にとって)で改易やむなし。
毛利一族は、本家で面倒見てやれという事かな?
あとは小大名を改易してますね。潰しても反撃の怖くない連中。
青木と長宗我部に関して言えば、
青木は、木下一族で、かなり急造大名(1599年に10万石→20万石へ)
長宗我部が、直前に家督を継いで、家康と親交のあった兄・親忠を殺害して家康の
怒りを買い改易。
というように、潰しやすいところを潰しました!
という感じですよね。関ヶ原でどんな立場だったとか、豊臣シンパだからとかでなく。


270 :日本@名無史さん:04/05/11 01:26
毛利一門は関が原でも無傷だし、小早川一万五千、秀元一万五千、吉川その他で五千はあるかな。
そして輝元本体が3万は大坂に積めていた筈。
諸藩の敗残兵や糾合すれば、十分戦える兵力だし、三成がいない今、加藤などが家康につくかどうか微妙だな。
さらに秀頼を使えば、もっと上手く立ちまわれそうだ。

つか交渉ってのは逃げ道をつくっておくから意味があるわけで、
呑めない条件を提出したら、勝ち目がなくても抵抗するよ、ハルノートみたいなもんだ。


271 :日本@名無史さん:04/05/11 01:27
大谷吉継ってわずか6万石しかなかったのか・・・・

272 :日本@名無史さん:04/05/11 02:06
増田は大藩だと思うんだけどなあ。20万石あるし。

273 :日本@名無史さん:04/05/11 08:25
>>269
それで、10万石以上で改易の大名を挙げてみる。
織田秀信(美濃岐阜13.3)
青木一矩(越前北庄20)
石田三成(近江佐和山19.7)
宇喜多秀家(備前岡山57.4)
小西行長(肥後宇土24)
丹羽長重(加賀小松12.5)
増田長盛(大和郡山20.3)
立花宗茂(筑後柳川13.2)
宮部長熙(因幡鳥取13.1)
毛利(小早川)秀包(筑後久留米13)
長宗我部盛親(土佐浦戸22.2)
岩城貞隆(陸奥磐城平12)


274 :日本@名無史さん:04/05/11 09:02
>>267 2について、結論から言うと防長二州は毛利家の為に用意したんじゃな
いって事。
戦後の論功行賞で、毛利宗家改易、防長二州を吉川家に分け与える打診があっ
たが、広家は吉川家が貰い受けるハズの二州を毛利宗家に、と言う事で落ち着
いた。関が原で毛利軍を食い止めていたのは、勝因の中でも大きいから家康も
了解したんじゃないかな。

吉川家は領地安堵とか、参勤交代などもしていたのに、毛利宗家は吉川家を独
立大名とは認めず陪臣として扱っていた為に、江戸幕府では微妙な立場だった
とか。

関が原後防長二州を吉川広家が謹んで頂戴していれば、毛利宗家は滅亡してい
たハズである。

275 :日本@名無史さん:04/05/11 12:04
>>274
ここからは、ちょっと妄想ですが。吉川が防長を受け取っていたら・・・
吉川化け猫屋敷 も 鍋島同様 歌舞伎などで有名になっていたことでしょうね。
===ということで 吉川化け猫屋敷は スルーして===

276 :日本@名無史さん:04/05/11 12:07
つーか家康は防長じゃなく安芸、石見、備後の山奥くらいを与えておけばよかったんじゃないか?
あのあたりなら毛利、吉川の元々の所領だし、さほど重要性も高くない。
よってあまり力を付けることもなかったと思うが。


277 :日本@名無史さん:04/05/11 12:33
>>273
けっこう 見逃してました... orz
ということで、家康は、潰し易いところを潰した。という事で説明すると
織田秀信(美濃岐阜13.3)
→ これは 落城済み
青木一矩(越前北庄20)
→ 急造大名で、基盤が弱い
石田三成(近江佐和山19.7)
宇喜多秀家(備前岡山57.4)
小西行長(肥後宇土24)
→ この三人は、関ヶ原主力三家で、抵抗武力がすでに崩壊
丹羽長重(加賀小松12.5)
→ 前田家への報酬
増田長盛(大和郡山20.3)
立花宗茂(筑後柳川13.2)
宮部長熙(因幡鳥取13.1)
毛利(小早川)秀包(筑後久留米13)
→ 本家で救済
長宗我部盛親(土佐浦戸22.2)
→ 家督相続直後で基盤が弱かった
岩城貞隆(陸奥磐城平12)

なんて事になるかと。増田、立花、宮部、岩城はちょっと今思いつかない

278 :日本@名無史さん:04/05/11 12:39
>>277
にょろにょろ 検索したら、岩城貞隆は、佐竹家からの養子で
川中島に減封後、秋田佐竹家のそばに移転ですね
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/mutudewa/kameda.html

279 :日本@名無史さん:04/05/11 15:57
>>276 それだと論功行賞にならない。
小早川秀秋 筑前名島 357000石 → 備前岡山 510000石に加増された様に
吉川広家も 出雲富田 142000石 → 周防・長門400000石の加増は当時の
論功行賞から言って妥当だ。辺鄙な領地では諸侯への示しが付かないそうな
ると、将来豊家滅亡の際に徳川家への求心力が無くなる。

280 :日本@名無史さん:04/05/11 18:16
>>279
じゃあ、出雲一国+石見半分くらいで。
石見銀山は当然あげないと。
もしくは出雲と伯耆にするとか。
そのくらいなら無理がないと思う。
加藤が肥後一国を与えられたり、黒田が筑前+豊前を与えられた例があるから。

281 :日本@名無史さん:04/05/11 18:34
>>280
太閤検地の段階で(万石単位で四捨五入します)
因幡  9万石
伯耆 10万石
出雲 19万石
石見 11万石
隠岐  4万石

こんなモンだから 出雲+ 石見半分だと 26万石程度
出雲+伯耆だと 29万石

吉川の功績を 二倍あげちゃう程度とするか 三倍あげるに相当するか・・・
周防・長門で40万石に相当するとすると
因幡 伯耆 出雲 これで 38万石このくらい。
ずいぶん 細長いねぇ。

282 :日本@名無史さん:04/05/11 18:44
>>279
こうしてみると、秀秋もずいぶん見合わない加増ぶりだね。
慶長の役での不行状で、12万石に減らされたのを、秀吉没後のどさくさで、35万7千石に
復帰していたわけで、その分は 事前払いだからな! なんて すごまれちゃったのかしら?


283 :竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/05/11 19:15

薩摩も長州も藩主が積極的に幕府を倒そうとしたのではなかった
戦国以来、ウン百年ぶりに「下克上」が発生し、家臣共(特に下級
の家臣)が藩を乗っ取り兵権を掌握し、幕府を倒したのである

要は、室町時代に起きたことと同じことが繰り返されたのである
尾張守護斯波家が家臣である織田家に乗っ取られ(この場合、露骨
に潰されたわけだが)、結果、室町幕府が倒された
あらかじめ、斯波家を織田家共々、葬り去っておけば良かったの
だが、そんなことはできなかった(予知能力を持つ超能力者で
ない限り)

つまるところ、江戸幕府が倒れたのは(幕末の)幕府首班の失政に
原因があった 人民に「今の政治・統治体制は良くない 倒さねば」
と思わせるような政治・政策を行ったのが悪いのである

・・・・というのはどうですか?

284 :日本@名無史さん:04/05/11 19:22
>>281
石高ってどの程度信用していいんだか分からないが
防長と安芸の交換なら充分かな。
毛利36万石+吉川6万石等=広島浅野43万石ぐらいだったと思うんだが。
まあ安芸だと結構実力つく気もするが、下関みたいな情報と荷が集まり、大
陸と密貿易しやすいところをやるよりはマシだったんじゃないかと。

285 :日本@名無史さん:04/05/11 19:32
>>283
このスレより明治維新とは一体なんだったのか?スレ向きのレスだと
わしは思う。
個人的には結構良レスとはおもうけど。

286 :日本@名無史さん:04/05/11 19:36
>>284
http://village.infoweb.ne.jp/~ksatake/fkunu1.html
さっきの資料のソースは 上のところです。
石高の正確性うんぬんはさておき、少なくとも石高によって動員兵力を決めていたので
何らかの軍事政権としての各大名家にとってのリアリティはあったと思います。

上のソースだと実高がありますが、たぶんこれは、総石高3000万石になっているから、
江戸中期以降、享保時代くらいのデータではないかと思います。

安芸備後(福島家)の成長と比べると防長二州の伸びはすごいですね。
毛利 必死だなと。

西回り海運が開発されたのが 1672年だから、関ヶ原直後ではまだ重要視されて
いなかったのかもしれませんね。

287 :日本@名無史さん:04/05/11 20:16
>>286
下関って西回り海運開発後に大きく発展したみたいですね。
石高の表高と実高も凄い乖離だ。最初からこうだった訳じゃないだろうから
家康の処置も当時なら順当だったみたいな感じですね。
これだったら防長で実力伸ばした毛利を素直に誉めるべきかな。


288 :日本@名無史さん:04/05/11 20:34
>>283
土佐も含めて、関ヶ原の戦いでひどい目にあった藩たちが
260年ぶりぐらいにやっと徳川にリベンジを果たしたっていう
考えでいいんではないかね


289 :日本@名無史さん:04/05/11 20:38
土佐の上下関係ってよくわからないんだけどこれでいいの?
・殿様:山内容堂
・上士:山内侍(板垣退助など)
・庄屋:町人(中岡慎太郎など)
・白札:奴隷(武市半平太など)
・郷士:虫ケラ(坂本龍馬など)

290 :日本@名無史さん:04/05/11 21:06
>>288
その見解ってみなもと太郎の「風雲児たち」の史観に影響されてや
しないか。

291 :桓武平氏:04/05/11 22:37
よくテレビに出ている、佐々、って言う人あの佐々成正の子孫?

292 :日本@名無史さん:04/05/11 23:22
>>284
江戸期の広島藩浅野家42万石は安芸一国だけの石高じゃないよ。
備後の半分くらいを含んでいるし、他にも飛び地的な所領が結構あるはず。

関ヶ原後の毛利領は、現実的には、周防+長門よりは、安芸+周防のほうが良かったかも知れないな。
石高的には、長門より安芸のほうが多いが、長門には海上交通の要衝・下関があることを考えれば、これでもましだと思うよ。
もしくは、防長2ヶ国を与えるが、下関周辺だけは除外とか。
(でも、幕末の長州藩を考えれば、仮に所領として与えなくても軍事占領されてしまう危険性は消えないが)


293 :日本@名無史さん:04/05/11 23:51
tu-ka下関が発展したのは、毛利氏の政策のおかげがあるからなあ。
藩が積極的に中継貿易として育て、果ては大坂への供給を左右するようにまでなったのは、
毛利氏の政策を無視できない。
長門与えなくても、広島あたりで色々やってそうだ。

294 :日本@名無史さん:04/05/11 23:57
>>287
確かに冷遇・警戒されながらも実力を付けて、
幕府を倒した薩長が凄いね。

>>288
土佐は東軍・山内だからひどいことにはなっていないだろ。

>>292
でも下関がないと貿易も出来ず、あれだけの力はつけられなかっただろう。
薩摩も半ば公然と密貿易やって力を付けたし、貿易って偉大だね。
かつて長門を本拠にしていた大内も貿易で力を得ていたし。
あの場所は昔から重要な場所だったのに、そこを与えてしまったのは徳川の失策だと思う。
天領若しくは譜代小大名に与えるのが適当だったかと。

295 :日本@名無史さん:04/05/12 00:23
長州は関ヶ原でひどいことっていっても自業自得だしな。
むしろ西軍諸将から恨まれてしかるべき。

296 :日本@名無史さん:04/05/12 00:42
>>294
大内家の対朝鮮貿易の拠点は「博多」です。
http://www.uraken.net/rekishi/reki-chu18.html
大内+博多 VS 細川+堺
これが、勘合貿易におけるライバル関係


297 :日本@名無史さん:04/05/12 00:51
貿易といえば反対側の松前や津軽もそうですな。実高滅茶苦茶高かった。

298 :日本@名無史さん:04/05/12 00:55
>>292
http://www.hitomachi.city.hiroshima.jp/yano-k/town/rekisi-s/rekisi2.html
安芸の国 音戸の関を開き 瀬戸内貿易航路を開いたのが 平清盛。
1600年の段階では、音戸の関を押さえる 安芸の方が 長州よりも 交易上
優位な立場だったようです。
>>296 も 私ですが、なんか 下関を発達させて 毛利マンセーみたいですが、
1600年頃の視点で考えると 交易上のベネフィットはあの辺では
安芸(音戸の関) 筑前(博多) > 長州(下関)
http://page.freett.com/plains/rekishi_03.htm#江戸時代初期
※ 下関が栄えたのは 17世紀半ばくらいから・・・
しかも直接的には本家ではなく、分家。

徳川方としても、その段階においてはベストな配置ではなかったでしょうか?


299 :日本@名無史さん:04/05/12 00:57
>>296
博多と堺が対立構造になるのは、むしろ応仁の乱以後らしい。
応仁の乱以前は、畿内における遣明船の拠点は主に神戸だったが、応仁の乱で大内が西軍についた結果、幕府の遣明船にとっては関門海峡を通る瀬戸内ルートが使えなくなった。
そこで、紀淡海峡を南下して四国九州の南岸沿いに薩摩の坊津まで行くルートに変わった。
その結果、地理的に神戸よりも堺のほうが遣明船の拠点として便利になり、堺が大都市に発展するきっかけとなった。

本題に戻すと、もともと下関があろうとなかろうと、関門海峡が交通の要衝であることには代わりがなく、その両岸のうちの片方を毛利に与えてしまった政策の是非は、いかがなものであろうかということになる。


300 :日本@名無史さん:04/05/12 01:07
>>286
そのサイトの国名表記ってかなり面白いね。w

上野 上州 かみつけ ←いつの名前だw
武蔵 武州 むさしも ←某トンデモ説?
下総 * しもふさ ←何故かここだけ旧仮名遣い
上総 総州 かみつふさ ←いつの名前だw
甲斐 甲州 かひ ←何故かここだけ旧仮名遣い
相模 相州 むさかみ ←某とんでも説?
伊豆 豆州 いづ ←何故かここだけ旧仮名遣い
遠江 遠州 とおつあわうみ ←いつの名前だw
三河 参州 みつのかわ ←???
美濃 濃州 みつのの ←???
近江 江州 ちかつあわうみ ←いつの名前だw
紀伊 紀州 きのくに ←???
伊豫 豫州 いよ ←何故かここだけ旧漢字


301 :日本@名無史さん:04/05/12 03:18
>>294
土佐は前政権であるチョウソカベ一族が取り潰されて
それまでの士分が郷士階級に落とされて辛酸をなめた事は
有名だが、町人らはもっと悲惨だった。
人権板の四国スレをみるとわかるが、日本で有数の同和率の高い
自治体がいくつもある(自治体特定はこのスレ自体消されるから
勘弁な。 する必要もないだろうし。)
で、土佐は薩長らと異なり郷士らが藩の主導権を握ったわけでないと
いうこと。権力奪取を意図した武市はじめその犬として使われた
以蔵は吉田東洋の暗殺が契機となって容堂の信を失い、
藩邸に誘い込まれた上で切腹においこまれ、以蔵も刑死した。
土佐勤皇党壊滅後、中心に動いたのは後藤や板垣ら上士系の
士分であり、山内自身も積極的に介入した。
その点が薩摩と大きく異なる。
何?竜馬? 慶喜は竜馬など知らん。 後世のほら話を司馬が
エンタメ小説にしたてあげたのを土佐の厨房たちが真にうけたのさ。

302 :日本@名無史さん:04/05/12 10:44
>>301 司馬作品以前の明治初期に遡って、当時坂本竜馬の銅像を建設
し、その功績をたたえ様とした市民レベルの動きがあった。
この時岩崎弥太郎が資金の提供を申し出たが、あくまでも市民の募金
で建設するとこれを断わった。
寧ろ影響されているのは、後世の司馬の方だ。

303 :日本@名無史さん:04/05/12 11:27
維新の原動力は薩摩ヘコ組

304 :日本@名無史さん:04/05/12 11:28
徳川家の失策は、関が原後一端、毛利を改易にし周防、長門の二州を吉川広家
に申し下された訳だが、広家が周旋した時に断固たる態度を示さなかった事だ
あくまでも吉川家に対する褒美であった、毛利家の為では無いと突っぱねる事
もできたはずだ。

305 :日本@名無史さん:04/05/12 11:32
あれだね、坂本の裏の動きを読まない奴こそ、シバに反動的な影響、アレルギーを受けてるね。中には無視しようとするアホウまでおるからな。相当な坂本アレルギーで正見なし。

306 :日本@名無史さん:04/05/12 11:37
関が原後の戦後処理という重要な局面で毛利・吉川を追い詰めたら
徹底抗戦に走ると思うのだが。
薩摩をつぶさないと同様に家康の覇権を確立する事が目的であって
わざわざ吉川の面子を潰して政権流動化の要因を作るのは当時の
情勢では下策。
家康も神ならぬ身(死後に神様になったけど)、260年後の子孫の苦境
までわからないって。
元々薩長やらずとも黒船がきた時点でどの道幕藩体制が動揺したろうし
肥前や会津のように洋式軍隊に変化していった藩も存在する以上、
いずれは覇権交代は引けられなかった。
何ら改革が無かった場合外国の植民地になっていたろうしな。

307 :日本@名無史さん:04/05/12 12:05
>>306
禿同
薩長土肥の雄藩の他、天皇や外国も考慮しないといけないし、
また身内の水戸藩も幕府を潰す主因となった(慶喜の大政奉還)。
江戸初期の段階では、長州を潰すメリット<デメリットだったから
潰さなかったのだろう。

308 :日本@名無史さん:04/05/12 12:22
>>307
元々、薩長が台頭した理由の一つは黒船来航がオランダから
長崎を通して1年前から来航する事がすでに判明していたから
晴天の霹靂ではなかった。
幕府はそれなりに海防政策を考えていたが、武装していたペリーの
強気に従来のような貿易拒否、開港策を打てず見通しが甘かった。
結局幕府内で処理できず家康の祖法を破って雄藩や朝廷に政局に
かかわらせた時点で幕府の政務能力が大きく揺らいでいるよな。
仮に薩摩長州が家康〜家光時代に改易されていた所で威信を
低下させた幕府に対する朝廷の権威の増大や雄藩の存在は変らない
しね。
幕末は周知のとおり社稷を守るはずの御三家や彦根ら譜代有数の
大藩まで敵になっている事から見ても260年の歳月が家康の意図した
いざ鎌倉時の藩屏機能を果たしていない。
いずれにせよ黒舟来航と前後して幕府の衰亡はひけられないと思われる。
家康に其処まで予測できないし。

309 :日本@名無史さん:04/05/12 12:51
関が原以前の吉川って独立大名扱い?

310 :日本@名無史さん:04/05/12 13:33
まあ世界情勢から考えてペリーがこなくともロシアやイギリスが
開国要求・貿易要望に留まらず武力で開港、特権要求はありえる
だろう。
家康の政策は関が原戦後の大名配置の妙によって徳川の優位を
決定づけた。その事自体は当時の情勢から見てまちがってはないし
内乱も幕末を除いて大阪の陣・島原以外に無いわけで評価できる。
思うに幕府は1800年代以降、異国の脅威が伝えられたにも関わらず
異国打払令などの対症療法的な政策しかやれなかった政治手法に
限界がきていたんでしょうなぁ。
どのみち(2藩がいなくとも)黒舟後の20年は政治的変動が引けら
れないだろうし、島津、毛利改易されていたとしても、新規に入封した
勢力が幕末に勢力伸張したやもしれぬし。

311 :日本@名無史さん:04/05/12 13:49
開幕から幕末まで、一番警戒されていたのは仙台藩伊達家62万石だったそうです。
もし伊達家が江戸に攻めてきたら、上野のお山は、大坂城の真田丸のような砦として
使用される予定だったみたいです。
ちなみに、薩摩島津家と長州毛利家は、藩主自身は徳川家をやっつけ様とは思っていなかったみたいです。
結局薩長の家臣が、藩主の命令を聞かなかったから、天下とった後、仲間割れを始めて、政治と軍部の対立、
陸軍(陸の長州)と海軍(海の薩摩と旧幕府海軍)の仲の悪さにつながると思います。
徳川の家臣は慶喜より家茂が好きだったけど、慶喜が宗家を継いだので上様と呼び、最前線の大阪で主君に
置き去りにされても、従順に江戸に戻り殿様の決断に従うとは、約260年続いた政権の本を見る気がします。
天晴れ三河武士(幕末は養子ばかり、血筋より家名が大事なのかな?)


312 :日本@名無史さん:04/05/12 13:57
其処まで警戒しているなら伊達騒動の時につぶせよw

313 :日本@名無史さん:04/05/12 13:59
>>306 毛利家36万石に減封した後に、豊家滅亡後改易と言う手もあったんじゃ
ないかな。それに吉川はさほど大名諸侯に対する影響力は無いと思うね。あくま
で徳川家は防長二州を吉川家に与えるつもりだった。影響力と言うより東軍勝利
の多大な貢献者が、必死になって家康に泣付いた結果だよ。広家は東軍に内通の
条件として毛利宗家の安泰を申し述べていたんだから。

>>308 勝を始めとして幕臣の間では、旦那は家茂までで、慶喜は旦那じゃない
と公言して憚らない奴が沢山いたらしいから、お膝元がそんな有様じゃ譜代雄藩
なんかもっとソッポを向いていたんじゃないかね。
特に彦根は水戸浪士らに殿様を討たれた事で、遺恨に思っているし。

314 :日本@名無史さん:04/05/12 13:59
>>299
下関は戦略上重要なポイント
→これは、源平の昔からそうですよね、しかも、家康は吾妻鏡ファンだから、知らないはずがない。
家康は、吉川のことは結構、評価していたんでしょうかね?
吉川元春は結構、秀吉を評価してなかったから、吉川家を潜在的な反豊臣と考えたかも。
家康の想定で言うと
山陽道は西へ大物大名は
豊臣 池田 小早川 福島 吉川 細川 黒田 鍋島
福島正則だと、吉川広家を監視してなんや かんやと 徳川にチクリそう
○○恩顧ってよく言いますが、仮に上のものを 豊臣 織田 独立(豊臣でも織田でもない)
とするつ 以下の並びになります
豊臣 織田  独立  豊臣 独立 織田 豊臣 独立
○○恩顧をどこにつけるかという判断も甘いですが、とりあえず隣同士を監視させる。
という、方針のようにも見えます。
山陽道の対面 北四国では
生駒(織田)藤堂(豊臣とはいえ、親徳川の気働きができる高虎)加藤(豊臣)
小早川正面 福島正面
と、藤堂をキーにして監視体制を引いたのかも・・・ま、今思いついたところだから、
あんまり いぢめないでね

315 :日本@名無史さん:04/05/12 14:16
>>309
豊臣政権は、朝廷における官職によって、各大名家を位置づけた・・・
ということなんですけど、それでいくと
吉川広家は民部少輔だったから、独立扱いでしょう

316 :日本@名無史さん:04/05/12 16:20
>>311
だって伊達政宗は、関ヶ原の戦いが長引いたら漁夫の利で江戸へ攻め込んで
天下をとろうっていう野心があったんだもん
しかし関ヶ原の戦いがたった一日で終わっちゃったため、ジ・エンド
家康にもしっかりバレていて、百万石の約束を反故にされた


317 :日本@名無史さん:04/05/12 16:37
蝦夷200万石(表高)で、毛利を北海道に栄転させればよかった。
独立したけりゃ勝手にさせればいい。

318 :日本@名無史さん:04/05/12 16:37
黒田かんべーも同じ口だよね。

島津や毛利らが積極的に戦っていないのはあわよくば自分らも天下をと
考えていた節があると以前NHKでやってた。

319 :日本@名無史さん:04/05/12 16:57
>>316
伊達家というより政宗という個人のカリスマが怖かったんだと思います。
>>312
のように、伊達騒動の時には、無論政宗がいないわけですから、潰すまでは・・・・
と判断したのではないでしょうか。

伊達政宗が、他の大名と違うのは、独立した大名として政略・戦略を立て、実際の
戦争も現場で行っていることです。
しかも、まだ、若い。

戦国生き残りの、たとえば加藤・福島・黒田(如水でなく長政のほうね)なんかは、
生まれた時というか、武者働きを始めた時から「部下」として育っています。
桶狭間の戦いのあと、今川・織田どっちにつこうか・・信長横死のあとどうしようか
秀吉対策どうしようか・・・とやってきた家康にとっては、「甘ちゃん」に見えたでしょう。

その点、政宗は家康と同じような苦労をして生き延びている。これは潜在的に
怖かったでしょうね。

とりあえず、今は毛利家の話題ですが、薩長に対する圧力のかけ方で違いがでたのは
それぞれの当主の器量というかカリスマの違いもあるんでしょうね。


320 :日本@名無史さん:04/05/12 17:08
>>317 すげー案

321 :日本@名無史さん:04/05/12 17:09
>>318
黒田はそうとう 黒
319でも書いたのですが、如水は自分からアルジを選択して生きてきていますから
北の政所にご飯を作ってもらっていた 加藤 福島 黒田(長政)なんかとは 玉が
違いますよね。

毛利は 灰色かな・・・
輝元は、どうも 甘ちゃんっぽいよね。

島津は 白でしょう。
朝鮮征伐の疲弊で 出兵できなかったというのが真相では?

やっぱり天下取りの合戦は
「おれの 身代だ 勝負かけても 文句は いわせねぇ」
というような 希薄が無いとできないと思うのよね。

322 :日本@名無史さん:04/05/12 20:27
>>308
確かに薩長がなかったとしても、威信が低下した幕府を見限って、
どこかが反乱を起こしただろうね。
そう考えると倒幕の原因を作ったA級戦犯は阿部正弘と
最後の将軍慶喜だな。

>>309
毛利の与力大名じゃないの?

>>313
同意。福島・加藤などは情勢が落ち着いたところで、
些細な言いがかりを付けられて改易されている。
その気になれば毛利もやれないことはなかっただろう。

323 :日本@名無史さん:04/05/12 20:45
個々の大名は多少無理をすればどこでもつぶせたと思います。
ただし全部の大名を潰してそれでどうするというビジョンがなければ、
見境なしに潰して回るわけにはいかないでしょう。
あの時期に郡県制を導入できたとは思えませんし、
親藩を封じたって裏切る可能性ありますしね。
現実が最善だとは言いませんが、ベターな選択だったんじゃないですか。
どんな天才だって200年後のことまで責任もてませんよ。

324 :日本@名無史さん:04/05/12 20:47
20万の兵力がひしめき合う関ヶ原に僅か1600人しか派遣してない島津が、
天下取りの機会を狙ってサボっていたと考えるのは無理がある。
大将の毛利があんなに消極的だったのは確かに不自然だが、
島津は軍議の席で三成とこじれたからという見解で問題ないだろう。

325 :日本@名無史さん:04/05/12 20:48
そうですね。結局司馬遼太郎さんもいっているように、
「ついでに言うと、幕府は秀吉が勝手に作った大名など恐れなかった。
徳川家の悪意は、このとき(関ヶ原合戦)協力した加藤清正、福島正則、
加藤嘉明やその筋目の取り潰しに集中している。天下を取ってしまった以上、
かれらに好感が持てなかったのであろう」
「しかし、島津のような地生え大名は、一戦で勝利しても、その兵士どもは
地下に潜伏し一草一木にいたるまでゲリラ化する恐れがある。徳川の天下は
まだ幼い・・・」



326 :日本@名無史さん:04/05/12 20:51
水戸は家康が討幕を予期した時の保険の意図で置かれたという説もあるし。


327 :日本@名無史さん:04/05/12 20:56
家康がいくら上洛を促しても
島津が上洛してこないことだったようですが、
ひとまずそれを落着させ、それ以後の幕府首脳部の最大の問題は
加賀前田対策かも?

328 :日本@名無史さん:04/05/12 22:06
郡県制導入は難しいよ。
家康は当然史記を教養として読んでいただろうから、郡県制の存在や
中央集権についてある程度の理解はあったと思われるが、
短命に終わった秦や社稷を揺るがした呉楚七国の大乱を経てようやく
導入した経緯を考えるとリスクがでかすぎる。
家康がまだ若年ならまだ織田家のように敵対勢力を討伐していく手法も
ありえるかもしれぬが、秀忠は信康のような勇将タイプではなく内政型の
人だったし、関が原後〜家光にかけての社稷がための時期にあえて博打
打つ必要ないでしょ。
家光までいくと生まれながらの将軍ではあるけれど、戦働きは未知数。
島原にはいってないしね。

329 :日本@名無史さん:04/05/12 22:09
>>326
戦国の世では常に対立軸を一族内に残して子孫存続を図るのは
常識ッス。
家康は将軍以外に朝廷を軸とする家系をあえて残したと思われ。

330 :日本@名無史さん:04/05/12 23:20
>>329
スレッドの本筋ではないが・・・
覇者の戦略として、対抗軸を作ることは正解なのだろうか?
秀吉存命ならば、徳川家として秀康という第二軸を作ることはリスクヘッジになる。
だが、覇者となった段階で家康に第二軸を作る必要はあるのだろうか?
源頼朝と言えば、競合となりうる弟たちを絶滅させました。
足利尊氏は、結局弟直義を滅ぼしています。

331 :日本@名無史さん:04/05/12 23:23
>>328
家康は史記を呼んでいたのかな・・・と 思ったら
http://www.city.okazaki.aichi.jp/yakusho/ka1030/ka364.htm
岡崎市にて、論語 史記 東鏡となってました。
知識としては郡県制は知っていたみたいですね。


332 :日本@名無史さん:04/05/12 23:26
>>327
これはもう、息子たちの中で実際の戦闘力経験のある成人した二人
秀康 → 越前
忠吉 → 尾張
と、配置したところから アリアリですね



333 :日本@名無史さん:04/05/12 23:29
頼朝は弟やその子を殺した事で北条氏に実権を奪われる原因になってる。

何が正解かは人により見解はことなるだろうが、
三国志で有名な曹一族もソウヒが一族を冷遇した為に後に司馬氏が
政権の実権を掌握したときに皆動けなかった。

今でも中国なんかは江沢民もいまだ軍事主席を手放していないが、
師弟は外国に留学させて米国やカナダで生活させているし、
宗家とは別の行動原理で動く一族の者を分家させておく手法は
戦略としては正しいと思う。


334 :日本@名無史さん:04/05/12 23:34
>>331
家康は元々学問に対する嗜好が人一倍強かった。
若いときは中国や日本の古典を治め(太源雪斎がおしえたかもね)
免許皆伝、薬草学を収め
関が原後もヤン・ヨーステンやアダムスらを家臣にして
数学、天文学、航海学、海外事情、歴史学などに至る
当時有数の知識人。
能もよく好みもうなんというかパーフェクト超人。

335 :日本@名無史さん:04/05/13 01:44
昔の弱小大名は、どちらの味方につくかを迫られたときに
長男と次男を両方につけさせ、どちらが勝っても家が存続するように
したということもあるし

家康が御三家をつくったのは、あくまで世継ぎが生まれなかった場合に
そっちから養子をもらって将軍にするためでしょ


336 :日本@名無史さん:04/05/13 01:48
しかし水戸家だけは朝廷と幕府が対立軸になったときは朝廷に加勢すべしと
家康が遺訓したそうじゃないか。

337 :日本@名無史さん:04/05/13 01:57
>>330
足利尊氏は、鎌倉公方という大きな対立軸(?)をつくりました。

338 :日本@名無史さん:04/05/13 01:59
>>337
鎌倉公方は幕府に任命されるのだろ。

339 :日本@名無史さん:04/05/13 02:33
>>336
水戸家の伝説って、ちょっと眉唾ものではなかったかなと。
尾張家、紀伊家が50万石OVERなのに対して、水戸家だけ35万石。
しかも、他家が大納言なのに自分だけ中納言。
それへんのコンプレックスを解消する伝説ではなかったでしょうか。
http://nekhet.ddo.jp/people/japan/tokugawa01.html より
婚姻政策からみた御三家をみると(初代・二代)
結城秀康 正室:鶴姫-1621(義父:結城晴朝)
徳川秀忠  正室:崇源院 お江与の方 浅井達子1573-1626(父:浅井長政)
松平忠吉 正室:(父:井伊直政)
松平忠輝 正室:天隣院 五郎八姫(父:伊達政宗)

尾張家
徳川義直 正室:春姫1603-1637(父:浅野幸長)
徳川光友 正室:千代姫(父:征夷大将軍 徳川家光)
紀伊家
徳川頼宣 正室:瑶林院1601-1666(父:加藤清正)
徳川光貞 正室:安宮(父:伏見宮 貞清親王)
水戸家
徳川頼房 正室:なし
徳川光圀 正室:泰姫(父:関白内覧 近衛信尋)

と、忠輝〜頼宣 までの初代は 有力外様 御三家二代目はランクアップし
将軍家・伏見家・関白家と順々に家格を下げているようみ見られます。
※ 将軍家>伏見家と家格が・・・というのは、尊王史観では何かもしれませんが
逆に 将軍家のほうが上というデモンストレーションだったのではないでしょうか。
それにしても、徳川家として水戸家を尊王家に・・・という視点は婚姻政策上は
明確には見えません。
※ 頼房の正室なしというのは、かなりひん曲がった性格だったらしいですね、彼。


340 :日本@名無史さん:04/05/13 02:39
>>337
鎌倉公方は、関東の特殊性対応に、元々義詮をおいていた物を、直義対策で
京都に呼び戻したときに基氏を派遣したものです。
関東の特殊性は、奥羽の南朝方が有力であったこと、関東自体が足利の本拠地で
足利本体が京都に出張中だから、ビジュアル的に 生身の足利本家の分身をおく
必要があったからです。
と・・・スレッドの本筋から 離れつつ

341 :日本@名無史さん:04/05/13 03:07
>>339
秀忠正室の本名って、徳子じゃないの?
皇室関連の系図なんかだと、基本的に東福門院の母の名は浅井徳子となっているし。

342 :日本@名無史さん:04/05/13 10:59
>>324 でも元々島津は東軍につくつもりだったし、情状酌量なのかな

343 :日本@名無史さん:04/05/13 11:17
鎌倉公方がいたおかげで、幕末まで喜連川氏が続きました。
血統は絶えたけど、とりあえず家は続きました。


344 :日本@名無史さん:04/05/13 13:36
島津は最初から最後まで、関ヶ原で何が起っているのかをちゃんと把握出来なかった。


345 :日本@名無史さん:04/05/13 14:45
取り潰したからといって、安泰では無い事は確か。
土佐がいい例

346 :竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/05/13 15:04
>>319
やはり、武田信玄にボコボコに叩かれたときの恐怖が家康自身に残っていたの
だろうか?

秀吉についてはすぐ講話を持ちかけてくるだろうと見越して、小牧長久手の
合戦に及んだのかな?

347 :日本@名無史さん:04/05/13 15:36
>>346
家康脱糞図でしたっけ?悲惨な顔して頬に手をやっている肖像画。
戦国武将であんな肖像画が残っているのはほかには知りませんよね。

小牧長久手の戦いは、
秀吉体制はまだ固まってないだろう
信雄の血統の正当性が効果あるだろう
秀吉の内線戦略より自分の外線戦略が優位だろう

なんて踏んで出ていったんではないでしょうか?

そもそも、「決戦思想」自体が珍しい時代で、国境紛争こじれて、誤解から
だいたい決戦は生じています。
逆に言えば、強者はいかにして、弱者を欺瞞によって決戦に持ち込むかがポイント。

三方が原の戦いは、信玄の欺瞞工作の勝利。
小牧長久手の戦いは、

秀吉の欺瞞工作の成功 → のこのこ 尾張に出てくる 家康
塹壕戦による決戦回避の成功 → 勝てない秀吉 負けない家康が政治的に優位になる
三河中入り部隊の戦術的ミス → 局所的決戦における家康の勝利
再び決戦回避へ → 信雄を政略する

ってな 流れではないでしょうか?

348 :日本@名無史さん:04/05/13 17:52
>>339
水戸は、江戸に近いこともあって参勤交代を免除されていたので
「うちは別格」という意識があったらしい
水戸黄門(光圀)が「天下の副将軍」なんて呼ばれていたのもそのため

むろん、「副将軍」なんていう役職は存在しない


349 :日本@名無史さん:04/05/13 21:59
水戸は伊達への最初の備え。
伊達が南下してきたら水戸藩の戦力に幕府即応戦力を加えて迎撃に当たる。
反乱がこれで収束できればいいが、無理ならば遅滞戦術をとって
幕府直轄軍の召集を待ちこれで迎撃する。
要は首都防衛司令官?

350 :日本@名無史さん:04/05/13 22:20
>>349
白河があるじゃん


351 :日本@名無史さん:04/05/13 22:59
>>350
そりゃ戦力外w
親藩や譜代がコロコロ変わる藩は実戦力としてはかなり低いんじゃないかな?

352 ::04/05/13 23:14
初心者だから教えてほしいのだが。
なぜ幕末のあの時期に長州が歴史の表舞台に突然出てくるのか。なぜ京都に人が集まるのか?
黒船がきた、尊王思想が盛んな長州、いざ都へ。
でいいの?

353 :日本@名無史さん:04/05/13 23:32
幕末に おける長州藩の暴走というのは、
一藩発狂したかとおもわれるほどのもので、
よくいえば壮烈、わるくいえば無謀というほかない。


354 :日本@名無史さん:04/05/14 04:08
鎖国をしていても、中国がアヘン戦争でひどい目にあったとか、
アジアの国々が植民地にされたりといった情報は入ってきている。
幕府にまかせていては駄目だ! この国がなくなってしまう! と危機感が生まれる。
で、昔のようにもう一度「天皇を中心にした国」を作ろうという動きが起きる。(尊王)


355 :日本@名無史さん:04/05/14 04:32
幕府は鎖国政策などしていないのだ明治政府の欺瞞だろ。


356 :日本@名無史さん:04/05/14 05:12
それなら、ペリーやレザーノフは一体何を苦労していたのだ?


357 :日本@名無史さん:04/05/14 06:58
>>352
・下関を領地としていたため、中国の最新情報がいち早く入ってきた
・「攘夷」をスローガンにしていたため、幕末の初期から洋式軍備に力を入れていた
・馬関戦争以来農民軍を主力にしていたので、近代的な市民軍隊が成立する土壌があった
・軍備と政治工作ができる金がふんだんにあった
・他の藩に比べて農民を含めた教育水準が高かった

原因はこんなところだと思う

358 :日本@名無史さん:04/05/14 08:51
>>352 吉田松蔭の勤王思想が影響されているんだろうけど、長州人の根底には
攘夷や勤王と言った思想より、単に幕府が憎いといった感情があったんだろう。
西洋列強諸国から開国を迫られている幕府を困らせ様と、攘夷、攘夷と騒いで
いる。>>352氏の言う中国の最新情報、列強に占領された上海などの現状を聞く
ばかりでなく、実際藩士が見聞して列強の火力や占領方法を充分に理解している
ハズなのに無謀な馬関戦争を巻き起こした。
しかも戦後の賠償責任を幕府にさせた。これも幕府を困らせる為、長州の嫌がら
せなんですね。



>>357 >「攘夷」をスローガンにしていたため、幕末の初期から洋式軍備に力を
入れていた。
そこが過激攘夷派を多く排出する長州の大きく矛盾する処だな、攘夷派は極めて
毛唐嫌いで、洋学者や開国派の連中を暗殺しまくってたんだからね。

359 :日本@名無史さん:04/05/15 00:57
>>351
秀忠が会津に実の息子保科正之をいれたのは伊達対策だろうし
徳川の藩屏を担わせたのだろう。
血統は絶えて養子で藩存続するけど、会津戦争も闘いぬくほどの
気概は御三家や彦根にはみられなかった

360 :日本@名無史さん:04/05/15 01:01
>>358
江戸初期の取り潰し政策で諸藩が幕府に〆られていた時代とは雲泥の
差だよな。
賠償責任を幕府にとらすなど既に諸侯の分を超えているわけで
年代的に長州が急速に伸びたのは何年だろう?
ペリーが来航して外様らに政務関与を認めてすぐに実力を蓄えた
わけではないと思うのだが。


361 :神奈川奉行 阿部豊後守正外:04/05/15 01:03
その一件では私も困った。毛利もそうだが、藩主の実父にすぎない島津三郎
が江戸から薩摩に帰国するとき、異人を斬りおった。
この賠償責任も幕府に伝票が回ってきたんじゃよ。

362 :日本@名無史さん:04/05/15 01:42
生麦事件か?
郷に入っては郷にしたがわない異人どもをついカッとなって殺った。
今は反省している。


363 :日本@名無史さん :04/05/15 04:05
>>362
向こうもこちらをさげずみ、こちらも向こうをさげずんでたんだから
起こるべく、起こった事件だね
今のイラクみたいなもんだったのかな…

364 :日本@名無史さん:04/05/15 14:37
>>359
内容微調整
寛永09年(1632)、秀忠、死去
寛永13年(1636)、保科正之、山形へ
同年         伊達政宗死去5月24日
寛永20年(1643)、会津転封

ということで、家光の意思として、伊達家監視のために、正之が山形そして会津に
異動になったんでしょうね。
うまい具合に(?)最上が減封で移動になったのでしょうが、藩祖政宗死去後の
動静を掴む為にも信頼の置ける大名家をおく必要があったのでしょう

365 :日本@名無史さん:04/05/15 15:34
九州には幕府忠実な大名は幕末には居なかったのか?小笠原以外で

366 :日本@名無史さん:04/05/15 16:07
譜代大名では、豊前中津10万石の奥平大膳大夫と、日向延岡7万石の内藤備前守しかいなかった。
あと、外様ではあるが肥後の細川越中守がやや親幕的といったところか。
内藤は対薩摩という使命もあるかとおもうが、開墾率が最悪で、原野ばかりの
延岡領を切り盛りするのに手一杯で対薩摩の監視までに手が回らない。

367 :日本@名無史さん:04/05/15 16:18
失礼。延岡藩の内藤は、一揆による懲罰的国替をうけ、2万7000石
しかなかった。余計財政難に苦しんでいる。

368 :日本@名無史さん:04/05/15 16:23
>>366
九州の大名配置を見ると、10万石以上の大物では
筑前ー黒田
筑後ー有馬、立花
豊前ー細川→小笠原、奥平
豊後ーなし
肥前ー鍋島、(唐津藩)
肥後ー加藤→細川
日向ー(延岡藩)
薩摩ー島津

本州への連絡ポイントである豊前を譜代で押さえつつ、親徳川の細川が
キーとなるという感じですね。

肥後=薩摩は地政学的に敵対するらしいし、細川と黒田の仲の悪さは有名だった
らしい。

369 :日本@名無史さん:04/05/15 16:35
>>368
豊後の中川は10万なかったっけ?

370 :日本@名無史さん:04/05/15 16:52
>>368 結局、
薩摩藩の島津⇔人吉藩の相良(相良は外様だが昔から仲が悪いのでもってこい)、延岡の内藤
佐賀藩の鍋島⇔島原藩の深溝松平、唐津藩の小笠原(佐渡守系)
福岡藩の黒田⇔豊前小倉の小笠原(大膳大夫系)
を基軸にして、あとはどこまで信頼できるかは不明だが、細川を
九州の中央肥後に据え、合わせて、立花や有馬を監視させる。
という感じですかね。石高が違いすぎるから監視しか出来ないみたいんです。



371 :日本@名無史さん:04/05/15 16:54
細川と黒田ってなんで仲が悪かったの?

372 :日本@名無史さん:04/05/15 17:03
>>369
表高は七万石です。内高はそのくらいあったそうですが。

373 :日本@名無史さん:04/05/15 17:31
生麦事件は落ちがある。
この事件は久光公の参勤交代時に地に平伏しなかった英国人2人を
惨殺した事件である。
英国側は事件後、惨殺に関わった人物の処刑と監督した人物の更迭を
薩摩藩に要求し、薩摩藩は賠償金は幕府に一任し、関係者に切腹の沙汰を
申し付けた事を英国公使に通告し、ついては見届けるよう同席を要求した
出向いた英国側軍人、公使たちは薩摩藩邸で白無垢に包まれた藩士たちが
時世の句を読んで躊躇い無く腹を切り、介錯人が首を鮮やかに跳ねていくのを
見て、見届けた英国代表らはは日本人らが躊躇いなく次々と自決していくのをみて
卒倒、悪寒する人々が続出したという。
これぞ士道というものである。

374 :日本@名無史さん:04/05/15 19:04
桜島が爆発 爆発音は「大」 鹿児島

15日午前11時7分ごろ、鹿児島県の桜島南岳が爆発した。
鹿児島地方気象台によると、爆発音は3段階のうち「非常に大きく聞こえる」の「大」で、12年3月20日以来。
体感空振も14年10月20日以来の「戸や障子が激しく振動して時には破損することもある」とされる「大」だった。
桜島の爆発は今年4回目。
爆発当時、桜島上空には雲がかかっており、噴煙の高さは分かっていない。
鹿児島県警などによると、住民や建物への被害は確認されていない。
鹿児島市内の男性(28)は「鉄製のドアに何かがぶつかったような音がした」と話していた。


375 :日本@名無史さん:04/05/15 19:09
>>371
詳しいことは忘れましたが、新書版で出ている、実は農民は大事にされたYOみたいな本に
出ていたのですが、大筋では

農民は、大名にとっては主要な生産財なので、隣国同士で「こっち 移ってこない?」
キャンペーンみたいなのをやっていたらしい。
豊前=筑前で隣同士のときに、跳散してきた農民を(普通なら大名同士の協約で、
元に戻すのだが)戻さなかったらしい。
そもそも、戻さなかったのは、黒田家が豊前から筑前に移動になった時に、年貢を
取って根こそぎ持っていってしまい、移ってきた細川家は年貢を取れなかった・・・
なんていう事があったらしい。
半分徴税するとかが、普通だったらしいです。

というような、移動でただでさえ金の無いときの恨みなので仲が悪かったらしい。
少なくても、お隣さんのときは。


376 :日本@名無史さん:04/05/15 19:21
>>373
久光は当主じゃないから参勤交代ではないでしょう。
斉彬の遺志をついで、卒兵上洛のあと、大原勅使と東下、幕府改革を迫り
実現した後の道すがらです。

薩英戦争後、犯人の捜索を約したが、実際は犯人をうやむやにした。

切腹を実行し、外国公使が途中でやめさせたのは
土佐藩で、相手はフランス人。事件の名前は堺事件。

377 :日本@名無史さん:04/05/15 19:23
>>370
まぁ 肥後随喜の伝統でもあるし。

378 :日本@名無史さん:04/05/15 21:26
ttp://higo.co0.jp/top/

肥後随喜(ずいき)とは?
熊本の特産品肥後随喜は、細川藩が徳川将軍家 への献上品に定め、
参勤交代のお土産として持参 したと文献にはあります。 これはお湯、
又は水に浸すと柔らかくなりますので 大人の為の手工芸品(おもちゃ)と
して、昔から大変重宝がられたそうです。 ご家庭に、恋人同士で、又
友人への贈り物として...。 是非一度お試し下さい。
原料
ハスイモの茎で、それを乾燥して紐状にしたもの。
ご利用方法
お湯とかで湿らせて男のナニに下から巻き上げ、カリのところで折り返して、根本のところでほどけないように結んで使う。ぬるぬるしているので滑りがいいし、このぬるぬる成分で快感も増します。


379 :日本@名無史さん:04/05/15 21:27
ttp://higo.co0.jp/itiran/index.html

4ooo円が相場らしい

380 :日本@名無史さん:04/05/15 21:37
随分脱線してますな。

381 :日本@名無史さん:04/05/15 21:46
細川ガラシャもつかいましたか?

382 :日本@名無史さん:04/05/15 22:04
>>380
スマソ

とりあえず、細川家は徳川家に相当気を使っていたらしい。
忠興と忠利の往復書簡かなんかが残っていて、息子に対して、幕要へ
あ〜せ〜 こ〜せ〜と 言っているのがあると 

383 :日本@名無史さん:04/05/15 22:12
肥後随喜を将軍家に送るぐらい気をつかっていたからな。
ソースは肥後随喜販売サイト。

384 :日本@名無史さん:04/05/15 22:48
薩長はともかく、せめて廃仏毀釈その他諸々の件を取り上げて水戸藩だけでも
潰しておけばよかった物を。



385 :日本@名無史さん:04/05/15 22:52
誰が潰すの?慶喜が自分の実家つぶすわけないじゃん。


386 :日本@名無史さん:04/05/15 23:03
>>348
>水戸は、江戸に近いこともあって参勤交代を免除されていたので
>「うちは別格」という意識があったらしい
定府というのは「参勤交代を免除されていた」のではなく、「
原則として江戸にいることを義務付けられていた」ということで、
水戸家の家格が低い証拠だと思っているのだが、おかしいか?
 譜代大名でも定府の大名は家格が低い家だ。旗本はふつうは
定府で、とくに参勤交代を許されている旗本(交代寄合)は、
定府のふつうの旗本より家格が高い。


387 :日本@名無史さん:04/05/15 23:38
>>386 おかしいな。

普通、旗本の知行地は実際の支配関係はなく名目上のものだったな。だから、実質は天領の
一部で幕府領地支配の一環として治められていたな。しかし、参勤交代が許されていた旗本
は多少、本来の支配関係が発揮されていた訳で、当然、普通の旗本より家格が高い。
水戸藩は幕府領地の一部ではなく、実際に藩を構え、藩主と領地領民の支配関係が具体的に
あった訳だな。水戸藩については参勤交代は義務ではない。しかも、国許へ帰ることは自由だった。
ここがポイントだな。実際、近いこともあって、水戸藩主はシバシバ帰国している。
自分の領地・領民に自由に接触できることは水戸藩主にだけ許された特権だった。

388 :日本@名無史さん:04/05/16 00:01
>旗本の知行地は実際の支配関係はなく名目上のもの
ではない。実質は天領の一部で、幕府領地支配の一環として
治められていたというのは全くの誤まりだな。蔵米取りでない
知行地を貰っている旗本は、知行地に陣屋を置いて統治しており、
実際上の支配関係はあった。
例をあげると、上田家は5000石程度の大身旗本
だが陣屋を置いて、江戸から派遣した家来と現地採用者
できちんと領地を支配している。↓
 ttp://www.eonet.ne.jp/~neo1/sabu25.htm
いうまでもなく、上田家は定府で交代寄合ではない。

389 :日本@名無史さん:04/05/16 00:07
>>388
全くの誤りではないな。そういう者もいたということだな。
水戸藩の説明には補強材料になるな。

390 :日本@名無史さん:04/05/16 00:18
>国許へ帰ることは自由だった。
これも誤りだな。幕府の許可がなければ帰れない。
これもほかの定府の大名、例えば三草藩の丹羽家
なんかと同じ。申し出たときに、許可は出るだろ
うが、帰国自由というのは全く事実に反する。


391 :日本@名無史さん:04/05/16 00:36
許可が必要といっても、実際は可能であったな。

392 :日本@名無史さん:04/05/16 00:37
>>390
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/gosannke.htm
の方のをまとめると 定府に関しては

水戸家とその常陸国内の分家は定府
尾張家は分家も含めて定府ではない
紀伊家は西條家が定府
※西条は四国・愛媛だから、常陸で近いから・・・というのは理由ではないようですね。

393 :日本@名無史さん:04/05/16 00:48
天下の副将軍は諸国漫遊しておろうが?
このお方をなんと心得る!縮緬問屋のご隠居などではないぞ!

394 :日本@名無史さん:04/05/16 00:58
天下の将軍は暴れん坊

395 :日本@名無史さん:04/05/16 01:02
将軍様は北島八郎とマブダチ

396 :日本@名無史さん:04/05/16 01:48
国替えで関東に転封すればよかったんだ。薩摩や長州なんて
江戸から離れてるから何かやってても把握するのは困難だろ。

397 :日本@名無史さん:04/05/16 01:54
うんなん言ったら
仙台伊達家も野放し

398 :日本@名無史さん:04/05/16 02:03
取り潰「さ」なかったというより、様々な要因とリスク、障壁の結果、取り潰「せ」なかった

399 :日本@名無史さん:04/05/16 02:32
伊達家脅威説で疑問に思う事があるんだけど
伊達は外様では珍しく支藩でもなければまったく縁もゆかりも無い
宇和島伊達藩を幕府が設けたよな。
脅威論では説明できないと思うのだが?
初代正宗はともかく、幕府の藩屏として自己領域化したと革新した
からこそ宇和島の地に伊達家を派遣したのではないか?
あれなんぞ、伊達の必要は無いなずで、別に部屋住みあつかいの
徳川か松平系のヤシを派遣して親藩にすればいいのにあえて伊達
なんだぜ?石高もその辺の譜代より多いし。

400 :日本@名無史さん:04/05/16 02:36
>>387-389
基本的には、>>388の言うことで正しいと思う。
自らの知行地を持つ旗本は、大名と同様にその領地を支配している。
ちなみに、旗本には元々参勤交代をする義務はなかったのだが、一部の旗本が自らを大名と同じ待遇であると世間的に主張するために勝手に始めたものが交代寄合の起源らしい。
そのため、交代寄合になっている旗本には、没落した旧大名家や高家のような名家の末裔が多い。

なお、江戸後半期になると、関東地方においては、領主の如何に関わらず、警察権は幕府が一円的に管理するようになる。(水戸藩領を除く)

401 :日本@名無史さん:04/05/16 11:31
>>400
で?、水戸藩に参勤交代がないことは、水戸藩を優遇していることにあたるのかな?
それとも、一般の旗本並の扱いで尾張藩・紀伊藩より家格が低いことの現れなのかな?

402 :日本@名無史さん:04/05/16 11:48
参勤交代の義務がない大名としては、喜連川氏がある。
関東公方足利氏の後裔で、5000石だが10万石格
の大名として扱われていた。幕府では、喜連川氏を
徳川の家来筋とは見ておらず、参勤交代の義務を
課していなかった。(ただし、実際には行列を
くんで江戸に定期的にやってきていたらしい。)
この場合は、自分の知行地の喜連川にずっといて
構わないという扱いになる。

403 :日本@名無史さん:04/05/16 12:04
>>359
会津に正之を入れたのは家光。秀忠は妻に遠慮して息子と認めなかった。

>>401
喜連川は特殊だからねえ。大名扱いですらなかったし。

404 :日本@名無史さん:04/05/16 12:16
喜連川のように、参勤交代なしで常時国元にいて構わない
というのであれば他の大名に比べて圧倒的に優遇、常時
江戸に詰めないといけない定府であれば優遇ではないと
思うのだが?

405 :日本@名無史さん:04/05/16 14:04
出羽の鶴岡藩なんかは佐竹への押さえとして配置された可能性が高い。
同じ出羽の山形藩が、保科正之が会津へ転封されて弱体化してからは俄然重要度
が増したように思える。

406 :日本@名無史さん:04/05/16 14:09
そもそも、伊達を警戒して水戸家を置いたのなら、
なぜ水戸家を定府にしたんだろう? 伊達が
攻めてきたときに、水戸に藩主がいないと
防戦に差し支えるし、そもそも定府にしておくと
藩主と地元との一体感が薄れるので、長期的に
見ると国力落とすと思うのだが?

407 :日本@名無史さん:04/05/16 14:24
現実問題として会津と水戸を破って伊達の江戸侵攻などありえないと
思うが。
水戸はヘタレでも会津なら会津戦争同様に徹底抗戦だろう。
刺し違えてでも伊達をとめると思われ。

408 :日本@名無史さん:04/05/16 14:52
館林は当初榊原康政という四天王の一人を封じたような重要な土地なのに、
その後天領になったり、徳川綱吉が藩主になったり、落ち着かない。
最後は秋元氏では弱すぎる。政宗亡き後、伊達は脅威ではなかったのかも
しれない。


409 :日本@名無史さん:04/05/16 14:59
水戸藩当主の江戸定府は、優遇とかではないが、特別扱いであって、将軍家との親密感
を表すものだよ。もともと、水戸に興った大名ではなく、徳川家の家族が領地を与えら
れたものという感覚を演出したかったんじゃねえのかな。

410 :日本@名無史さん:04/05/16 15:53
>>399
宇和島は相当に疲弊していて、治世に失敗すれば、取り潰しの諸刃の刃だったらしい。
http://bonfa.hp.infoseek.co.jp/literature/uwajima1.htm
「とにかく、政宗は宇和島藩を建て直すために、六万両の大金を貸し出し、
さらに山家清兵衛という優れた人物を付けた。」

100万石のお墨付けというのは、どのくらい当時の大名社会で認知されていたのでしょうか?
これは不明ですが、もし各大名が知っているとしたら、「ちょっと 徳川さんもしわすぎ」
と思われていたら、それを緩和「徳川のためにやれば、なんか いいみたい」
と思わせる必要があったのではないでしょうか?

不満は時々ガス抜きしないと。

411 :日本@名無史さん:04/05/16 16:08
小学校の時、大名に散財させるために参勤交代をやらせたとか習った気がするけど、
定府の方が経済的負担は少ない?

412 :日本@名無史さん:04/05/16 16:18
>>411
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hakuga/rekisi/bukesyohatto.htm
の下のほうによると、島津家で支出の5%が参勤交代への支出
http://homepage2.nifty.com/mazzn/427433.htm によると
====
米  扶持米給与等−−−−−−24,000石
   大坂回米・同運賃−−−−18,500
   領内鉱山販売米−−−−−11,300 
   その他−−−−−−−−−−5,000
  (計 58,800石)

銀  江戸支出額−−−−−−−−6,893貫
   京都支出額−−−−−−−−−−500
   国元支出銀−−−−−−−−1,413
   借銀返済−−−−−−−−−7,747
  (計 16,553貫)
====
大名にとっては、じっと地元にいるというのが一番いいんでしょうね。

413 :日本@名無史さん:04/05/16 16:26
大名にとってはな。

幕府にとっては大名の強大化を阻止できる上に
宿場町や江戸で内需拡大につながり地域の活性化・安定化
および江戸の町に自然と金が集約される効果もあった。

これだけしたのに薩長には通じず。
260年の歳月は従来の石高=戦闘力に直結した江戸初期の
大名統制策を無力化したといえよう。
初期の幕閣は武器の技術的な改良を禁じたが、幕末には
無力したのも大きい。

414 :日本@名無史さん:04/05/16 16:31
>定府の方が経済的負担は少ない?
逆。定府の方が経済的負担が大きい。江戸での生活は
お金がかかる。水戸家に財政難の一因は定府であり、
江戸に多数の家臣を置いていたこと。後年、斉昭は
財政難打開のための一策として、定府をやめている。
その際、大量の家臣が国元に帰還している。

415 :竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/05/16 16:39

「地生え大名」という言葉が出たが、これって兵農未分離の軍隊
ですよね? 兵農分離が進んだ軍隊と未分離の軍隊って一般的に
どっちが強いのかな?

416 :411:04/05/16 17:01
>>412-414
ありがとう。
水戸はともかく九州までは大変だ…。
遠方の1、2万石の小大名にとっては定府の方がマシだったりしないのかな。

417 :日本@名無史さん:04/05/16 17:42
>415

強い、弱いじゃなくて、「地生え大名」の家臣は主家が取り潰されると牙をむく率が高いのでは?


418 :日本@名無史さん:04/05/16 17:46
>>415
「地生え大名」てその土地で成り上がった大名のことをいってるんじゃない?薩摩の島津、
中国の毛利みたいな。
兵農分離は島津は兵農未分離っぽいけど、毛利はどうだったのかな?

419 :日本@名無史さん:04/05/16 18:01
常時国元>>>参勤交代>>>江戸定府

420 :日本@名無史さん:04/05/16 18:01
>>417
時代によってもやり方によっても違うでしょうね。
戦国大名は一般的に「国人一揆」の主謀者といわれています。
兵農分離の一貫である太閤検地によって、はじめて戦国大名と各国人(=家臣)
との身分制が画然としたという一面があります。
※ とはいえ、そんな身分差なんて信じらんな〜〜いという意味で起こったのが
慶長年間の 伊集院VS島津本家の 一連の騒動といえます。

武田家の滅亡も、有力国人である木曽氏の内応が無ければ信長として侵略できない、
あるいは、コストのかかるものになったという一例になるかと考えます。
有力国人の内応があれば、あっけなく武田家は滅ぶし、内応が生じるまで、じっと
信長は、長篠の戦から待っていたということになります。

421 :日本@名無史さん:04/05/16 19:47
>>414
定府って藩主の意向で止められるの? 幕府の命令ではないのですか?

定府だと、江戸詰めの家臣と国元の家臣が反目し合うという弊害もあるようです。

422 :日本@名無史さん:04/05/16 20:17
>>421
三代 家光の時代 寛永の武家諸法度改正で、参勤交代を義務化しましたね。


423 :日本@名無史さん:04/05/16 21:32
>>414
間違っている。斉昭がやめたのは、藩主ではなく藩士
の定府制。ただ、水戸藩の天保改革期には、斉昭は藩政立て直し
のため、長期にわたる水戸滞在をしている。最初は自分から
願ったものだが、1年後には幕府から6〜7年の水戸滞在を
命令されている。そうしないと、水戸藩が潰れかねない
状況だったからだ。

424 :竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/05/16 21:38
>>418 >>420
また、俺は惚けたことを書いてしまった

「地生え大名」とは長年その土地にいて(もしくは成り上がって)、
地縁血縁等非常に緊密であり、郷土意識が強く、地形風土等熟知して
いる大名。。。ですかね

425 :竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/05/16 21:40
郷土意識というのも変か お家意識? これも違うか

426 :日本@名無史さん:04/05/16 21:48
>>423
幕府から命令されたのは井伊の安政の大獄とは時期が別なんですか?

427 :日本@名無史さん:04/05/16 23:08
>>423
斉昭が江戸にいると五月蝿いと水野が水戸にお引取頂いたのが真相らしいが。


428 :日本@名無史さん:04/05/17 01:01
>>425
お家意識というのは、江戸時代が進んで、家臣の転職が不可能になってからだと
思います。
後藤又兵衛や、本多政重のように転職が自由のときはお家意識は薄いかと。
http://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/maeda/b-honda-sige.html

戦国時代における家臣層というと
国人層
家之子郎党
親族衆
というように大きく分かれるかと。
そのうち、国人層はお家意識を持てというのもおかしくて、親族衆は潜在的な
ライバルとなります。

地生え大名というのも、どう定義なんでしょうかね?ぐぐってもあまり引っかかりませんし
司馬遼太郎の造語かしら

429 :日本@名無史さん:04/05/17 03:57
>>427
水野忠邦か?

430 :日本@名無史さん:04/05/17 12:15
http://village.infoweb.ne.jp/~ksatake/fkunu1.html

431 :日本@名無史さん:04/05/17 12:28
>>429
水野忠精。

432 :日本@名無史さん:04/05/17 12:49
>>428 >お家意識。
そうだね。戦国時代は群雄割拠が当然なんだからね忠臣と言う思想教育
は、徳川幕府が政権維持する為のものだったんだねそれは諸大名として
も同じニーズがあるから、急速に広まったんじゃないかなぁ。


433 :日本@名無史さん:04/05/17 13:09
その甲斐なく幕末では御三家も彦根も幕府の藩屏役どころか
幕府と敵対している始末。

434 :日本@名無史さん:04/05/17 13:16
家慶の死後、幕府は実体を無くした観がある。


435 :日本@名無史さん:04/05/17 13:42
>>433 いや、200年以上も体制を維持したんだから成功だと言ってよい
のではないだろうか。幕末だけの点だけを見てもねぇ

436 :日本@名無史さん:04/05/17 13:57
逆にいえば天下泰平の時にしか働かない倫理観といえる。
もともと有事に備えて禄を食んでいるのに幕末に裏切るんじゃな。

437 :日本@名無史さん:04/05/17 14:19
島津は取り潰せなかったという一次結論が出てますが、関が原直後は確かに
無理でしょう。しかし、木曽三川治水工事は素直にしたがってますね。費用
は自己負担で借財を抱え、現場では多くの死者を出し、幕府の役人の嫌がら
せも受け、それでも島津は抵抗しませんでした。
このときこそ幕府は追い打ちをかけるチャンスだったのでは?

438 :日本@名無史さん:04/05/17 14:27
>>436 だから点だけを見て論じても無意味。
>天下泰平の時にしか
後先が逆、その天下泰平を構築し維持する為の思想教育だったと
言う事が理解できないのかなぁ。二百数十年の大平を実現した事
は成功だったろう。

439 :日本@名無史さん:04/05/17 15:19
>>436
あの工事の為に薩摩が疲弊したのは事実だが、藩士の死者は100人たらず。
藩士総勢約4万を擁する薩摩を一気に潰すのは、これでもやはり危険な賭けだ。

それにそこで薩摩を潰す事は可能でも、無茶なお手伝い普請を押し付けておいて、
疲弊した所をすかさず難癖つけて叩き潰すような真似をしたら、
それを見て残りの諸藩が危機感から討幕に動き出すかも知れない。

「お手伝い普請を一生懸命完遂しても、弱らせて潰すのが幕府の狙いなのだから従えば損する」
と諸藩は思う。
そうなれば、諸藩は連帯して幕府に反抗し始めるだろう。
諸藩が幕府に従うのは生存の為なので、従えば滅ぼされると思われたら幕府は指導力を失う。
宝暦時代に薩摩を潰すには、それだけのリスクがある。

440 :日本@名無史さん:04/05/17 16:16
>>436
まぁ、藩=藩主じゃないからね。
いくら藩主が徳川に忠誠心を持っていても、実際に藩を運営している
家老などは何よりも御家の安泰を願うはずだから、滅びかけの幕府
に義理立てなどしないでしょう。

441 :日本@名無史さん:04/05/17 16:55
>437
本来幕府か尾張藩がすべき工事を薩摩にさせなきゃいけないくらい、
幕府も弱ってたから無理でしょ。
さすがにそこまで非道な命令には薩摩に同調する藩も出てくるだろうし。
何しろ幕軍も実戦経験ないから勝てるとは限らないし。
この時代の武士なんて一揆にもよく負けてるからね。

442 :日本@名無史さん:04/05/17 17:04
>>436
今の戦後民主主義なんてたかだか60年だぞ。
しかも有事の備えは極めて貧弱。
政治家は無能としか思えない政策を繰返し、景気回復もままならない。

徳川のように250年も持つかね?

443 :日本@名無史さん:04/05/17 20:35
>>437
このころの薩摩藩は将軍の嫁送り出しているくらいの友好藩だし
江戸時代初期から藩士の給料カットや殖産工業政策を実施している長州藩は、
幕府の倹約政策下における優等生。

佐幕派と反幕派で分類すれば、この頃の薩摩と長州は佐幕の外様筆頭
幕府からしてみればそもそも薩摩と長州を潰す理由がない。

444 :日本@名無史さん:04/05/17 22:58
>>439
有力大名家に「次は俺かな?んじゃったら 今のうち」と思わせてしまう愚は
足利義教の嘉吉の乱が、前例として考えられますね。
加藤家のように、ボケな息子が「倒幕ごっこ」をするとか、他の大名家が
「そら しょうがないべ うちは そんな 下手しないようにしょうっと」
というような感じでやらないと 反発がつよいんでしょうね

445 :日本@名無史さん:04/05/17 23:38
>>443
結局のところ、幕末に攘夷派か開国派かの論争が起こらなければ、これらの藩が倒幕へと突き進むこともなかったんだよな。
やがて「攘夷」が「尊皇」と結びついて「尊皇攘夷」となり、さらに「倒幕」と結びついて「尊皇倒幕」となる。
しかも、その過程で度重なる攘夷失敗が起こり、幕府の政権担当能力を世論全般が疑問視するようになってしまったことが決定的だったってことだね。

446 :日本@名無史さん:04/05/18 00:04
やはり阿部がいかんのじゃろう。長崎から1年も前にペリーが来航すると
しっていながら碌な手立てをおもいつかないんじゃから。
黒舟の軍事的圧力に屈した時点で幕府の威信が損なわれた事で
攘夷、開国論がまきおこったわけじゃから、適切に処理できれば
幕府はのりこえたろうな。

447 :日本@名無史さん:04/05/18 00:21
》64
吉川広家のおかげで、毛利は所領(家名)を持ち得たのに、当初から、毛利家は、吉川家に感謝の気持ちがなかたようです。
実際、輝元の養子で総帥代行の秀元は、いとこの広家と仲が悪く、かれのお蔭で毛利家存続を果たしたにも拘らず、あの時(関ヶ原)後、徹底抗戦していればと、逆の事を言っていたそうです。

448 :日本@名無史さん:04/05/18 00:41
だいたい、雄藩を潰して、替わりに譜代をと言って、何となく人材不足の感があるなあ、本多、榊原、井伊、酒井?土井、水野,阿部?ちいせーなあ。
三河の泥臭い大名が。姫路城を、タダで与えられた本多忠刻・・・。やつらに名城なんか絶対築けない。そこが、脳は足りなかったかもしれないが豊臣大名との違いだ。
幕末の井伊家のざまはなんだ。徳川家先鋒を預かる家か?

449 :日本@名無史さん:04/05/18 00:52
>>443
薩長が佐幕の外様筆頭というのはどうでしょうか?私は疑問です。
>>339 でも一度書いたのですが、家康の息子たちの正室は初代においては
結城秀康 正室:鶴姫-1621(義父:結城晴朝)
徳川秀忠  正室:崇源院 お江与の方 (父:浅井長政)
松平忠吉 正室:(父:井伊直政)
松平忠輝 正室:天隣院 五郎八姫(父:伊達政宗)
徳川義直 正室:春姫1603-1637(父:浅野幸長)
徳川頼宣 正室:瑶林院1601-1666(父:加藤清正)
徳川頼房 正室:なし
と、浅井家が当時はなかったのですから、実質的には実家は豊臣家。
婿入りのための秀康と正室の居なかった頼房を除くと忠吉以外は全て
有力外様となります。島津家から正室が出ていることをもって島津が佐幕は推論できない。

また、徳川の政策が基本的に農本主義、商業抑圧であったのに対して、薩長の殖産興業
重商主義は路線対立となります。



450 :日本@名無史さん:04/05/18 00:59
>>448
それは極論では?
豊臣大名の治世の有効性検証期間は短かったのですが、木村家なぞは、一瞬で崩壊してますね。
雄藩を潰せたら譜代を置くというのも問題はなかったかと。
それよりも雄藩を潰せなかったという当時の政治状況のほうが重要であると考えます。

451 :日本@名無史さん:04/05/18 01:17
>>446
同意。
幕閣が自らの判断ですみやかに開国してればなんの問題もなかった。
しかし優柔不断な阿倍が外様や朝廷におうかがいを立てたばかりに、
反幕勢の無責任な攘夷論につけ込む隙を与えた。
無能な外様や朝廷に外交問題を質問して、
まともな答えが返ってくるわけがないだろうに。

452 :日本@名無史さん:04/05/18 02:18
>>449
>また、徳川の政策が基本的に農本主義、商業抑圧であったのに対して、薩長の殖産興業
>重商主義は路線対立となります。

それは江戸後半期になってからだろう。
しかも、薩長だけではない。
多くの藩が財政問題打開のためにやっている。

453 :日本@名無史さん:04/05/18 02:24
>>451
スレッドの本筋からは離れているが・・・と思いつつ。
阿部のみの責任にするというのも如何なものか?
1843年 天保の改革における 上知令の失敗
同時期の 三方所替の失敗など、将軍権威による命令が貫徹できないことが
明らかになって後に
(1843)閏9月11日、阿部伊勢守正弘(25)が老中に任命。
1853年 ペリー来航
となっています。
阿部としては、将軍権威以外のものを求めざるを得なかったというのが現実では?

454 :日本@名無史さん:04/05/18 02:26
すべての大名が徳川幕府に心から忠誠を誓っているわけではない
もし薩摩を完全にぶっ潰したら「次はうちの番だ。」と恐がる外様が続出して
それこそ命取りになる
むしろ、言うことを聞いていれば潰すまではしないぞ、という態度をとったほうが
うまく治まるだろ


455 :日本@名無史さん:04/05/18 02:32
>>452
そのとおりです。各藩が殖産興業・重商主義にシフトしたのに対して、幕府は
株仲間解散令 など 全般に 反商業主義。
http://db.gakken.co.jp/jiten/ka/110440.htm
http://db.gakken.co.jp/jiten/ta/316260.htm
など、方向が違う。

その意味で >>443 の 薩長が 佐幕の外様という 考えは成立しないと考えるわけです。

456 :日本@名無史さん:04/05/18 04:12
歴史にIFはつきものであるが、仮に水野忠邦政権が続いていれば
黒舟にどう善処しただろうか
緊縮財政論者だったからやはり薩長あるいは水戸のテロに倒れて
直弼が忠邦という役者に代わるだけで歴史の大勢に変化はないだろうか


457 :日本@名無史さん:04/05/18 04:44
遠山の金さんが町奉行のまま。

458 :日本@名無史さん:04/05/18 06:53
>>449
島津斉彬が藩主だった頃の薩摩はバリバリの佐幕
長州も幕府支持勢力はかなり強かったし
松下村塾の面々ですら、徳川政権打倒まで考えているわけではなかったの。

この2藩がはっきりと反徳川の行動をするようになるのは安政の大獄以降

459 :日本@名無史さん:04/05/18 08:58
>>451 確かにね。実際200年以上も国政に従事していない外様や公卿に
開国の是非を論じても意味が無い、阿部老中は責任回避を狙ったとしか
思えません。

>>453
そもそも鎖国令を敷いたのが、家光であればそれを是正しても何ら問題
は無いはずで、過去を見ても生類哀れみの令を家宣は、葬儀の2日前に
綱吉の柩の前で、柳沢吉保に撤廃命令を下しているのだから、慣例に従
っても問題は無かったと考えますね。
命令の徹底というより、この場合開国したと言う既成事実を諸侯に発表
すれば良いだけと思いますね。

460 :日本@名無史さん:04/05/18 09:12
>>459
確かに開国するのに勅許なんていらなかった。
勅許を求めたために、相対的に朝廷の立場が上がったしまった。
結果的に薩長が朝廷を担ぎ、官軍と称して倒幕してしまった。

完全横レス。

461 :日本@名無史さん:04/05/18 09:18
大名行列を横切る外人を無礼討ちで斬ったりするような事態など、
既存の国内法と条約の整合が困難だと思うが。


462 :日本@名無史さん:04/05/18 09:18
阿部が責任回避というのは人聞きが悪い
家光以来の鎖国政策は、本来主君である将軍にしか撤廃を言い出せない鉄の掟と化していた。
阿部が不用意に開国を説けば、「家光公の定めた掟に盾突くのか云々」
と政敵に揚げ足をとられて失脚するのがオチ。

しかし国際情勢に明るい者にとっては、もはや鎖国の維持など論外だと分かり切ってる。
開国が不可避と知りつつ、それを理解できないボンクラどもから揚げ足を取られないようにするには、
阿部のように振る舞う事くらいしかできない筈だ。

463 :日本@名無史さん:04/05/18 10:28
>>1 それは結果論。

464 :日本@名無史さん:04/05/18 13:07
>>458
ただ、西郷をはじめとする薩摩出身の幕末維新の大物を育てたのが斉彬なのも事実。

465 :日本@名無史さん:04/05/18 13:20
朴 王路美


466 :日本@名無史さん:04/05/18 14:31
>1

アメリカが日本やドイツを取り潰さなかったのは
何故なのかとかも関係してるんじゃない。

467 :日本@名無史さん:04/05/18 15:10
>>462
もうどうあっても幕府は時代遅れだったんだろうなぁ。
それだけ硬直していては幕府が存続していても遠からず
欧米の植民地になったろう。

468 :日本@名無史さん:04/05/18 15:11
幕末のアームストロング砲
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/army/1074655015/

ついでにこのスレの住民は興味ありそうだから軍事板のスレを
はっておくわ。
興味あるヤシはきてくれ。

469 :日本@名無史さん:04/05/18 21:01
>>466
幕府対薩長なら、民族とか宗教とかの問題はほとんど発生しない。
アメリカが日本を取り潰したら、それらの問題上統治できないと思う。

470 :日本@名無史さん:04/05/18 21:23
アメリカはタリバンやフセインを取り潰してとんでもないことになっているもんな。
日本がつぶされたら最後の1人まで戦いぬく。当然だろう。
1人10殺がノルマだ。

471 :日本@名無史さん:04/05/18 23:14
>>466
17世紀と20世紀を同列に扱うのはあまりにも前提が違いすぎる。
>>469 も同じ意味で前提が違いすぎる。何の前提かというと
20世紀のドイツ および 日本は 国民国家の成立後。
17世紀段階では、まだ国民国家は成立していない。


472 :日本@名無史さん:04/05/18 23:17
>>462
揚げ足を取られるか・・・あるいは、阿部正弘の権威が 家光を上回ることになり、

阿部幕府が成立する可能性が生まれる。

473 :日本@名無史さん:04/05/19 00:10
秋田に美人が多いのは、水戸から左遷された殿様が美人をごっそり連れていったから
という説があるが、誰だ?


474 :日本@名無史さん:04/05/19 01:24
>>471
自分で補足しちゃうけど
民族や宗教よりも 国民国家のほうがかぎとなるのは スイスの例でわかる。
スイスは、民族的には 四つ。宗教は二つ。しかし内乱うんぬんもない。
スイス大使をしていた國松孝次氏(あの オウムのころ 撃たれた人)が書いていたのだが、
ドイツ語系のスイスには、書き言葉もないそうだ。

極論を言えば民族や宗教が戦争を起こすのではなく、戦争が国民国家を作る。
スイスで言えば、反ハプスブルク家への闘争や、傭兵としての海外経験がスイスを作った。
アメリカが国民国家になったのは 南北戦争。

475 :日本@名無史さん:04/05/19 01:33
>>474
スイスはな昔からの隠れ場だ。


476 :日本@名無史さん:04/05/19 01:36
>>474
無茶苦茶簡単に言うと、「戦友」が「国民」を作り、「国民」が「国」を作ると?

アフリカみたいに「部族民」レベルで固まって戦うのは、「国民」の前に「国」
ができてしまったからなのかしら。

477 :日本@名無史さん:04/05/19 01:40
>>474-476
世界史板へ移動してください。



478 :日本@名無史さん:04/05/19 02:32
>>477
若干の逸脱はお許し願いたい。
なぜならば、このスレッドは、徳川幕府は「何故」薩長などを取り潰さなかったか?
という謎解きであり、それが必然であったのか、偶然であったのか、意図したものなのか、
意図しなかったものなのかを考えるところであるかと捕らえています。

無論徳川幕府が明示的に「これからの日本をこうします」と公約して、それがどこまで実現されたか?
と、わかればまだたやすい問題でしょうが、いかんせん、そのようなものはない。
あるのは、歴史の事実だけ。その事実をどう解釈するには、歴史のケーススタディから推測するしか
ないのではないでしょうか?

政権樹立のケーススタディとして、鎌倉幕府や室町幕府は無論のこと、諸外国の例を引かねば、
「こう思う だって そう思うから」と考えは進みません。

考えてみれば 島津藩での総動員兵力は 2万以上あるかと推定されます。
如水が関が原の時に使った手法で、募兵するれば、全九州で10万近い兵力は瞬間的には集められたかもしれません。
しかも、島津義久の軍事的天才ぶりは、慶長の役、文禄の役で証明されています。
※ 軍事的天才の前では、数倍の兵力をもってしても多兵の方が殲滅される例は
アレキサンダー イッソスの戦い 3万対7万(しかも騎兵は5千対3万以上)
ハンニバル  カンネーの戦い 歩兵4万+騎兵1万 対 歩兵8万+6千

こんな 潜在敵国を 軍事的には凡庸な二代目秀忠に残しただなんて 義久が老人だったからいいけど、
義久が若かったら どうなっていたんでしょうかね?
若かったら、無理やりにでも ヌッコロスか、政宗にたいするように おだてたりすかしたりしたんでしょうかね?


479 :日本@名無史さん:04/05/19 02:56
>>472
ありえない。家康の譜代らに広大な御料地をあたえない政策が
功を喫して過去何度も譜代らの権勢の永続を防止してきた。
酒井雅楽頭などは宮将軍まで擁立しようとしたが、堀田に阻止された。
高位につけど、室町のよう当時としては軍事力の裏付けとなる
御料地の確保ができないのだから将軍が決まれば酒井も失脚する
しかなかった。これが従来の政権であれば挙兵、将軍暗殺など
平気で起こっていたろうが、真に神祖の祖法は偉大であったということだ。

480 :日本@名無史さん:04/05/19 03:04
>>478
秀忠〜家光期に天領700万石、京都大阪長崎江戸など全国主要都市を
直轄、流通経路を抑え、なおかつ日本全国に譜代をいれている。
江戸初期に島津が上洛侵攻などありえないし
秀吉ら上方勢との戦いでも島津は降伏している。

481 :日本@名無史さん:04/05/19 03:55
>>479
ご指摘のように
「酒井雅楽頭などは宮将軍まで擁立しようとしたが、堀田に阻止された。」
と、堀田の行動がなければ、宮将軍の擁立もありえたと考えるのが素直では?
仕組みさえ作ってしまえば、作為者が何もしなくても、必然のように歴史は流れるので
しょうか?もし あの時 堀田が家綱のお墨付きをもらうという非常手段に
訴えなければ、宮将軍・・・そして 酒井執権(?)と流れていたのかもしれません。
確かに酒井ウタは、自己の動員できる兵力は15万石程度ですから5千程度が
いいところです。
しかし、堀田の取った行動を酒井が取っていたら?家綱のお墨付きを酒井が
先に宮将軍の形でとっていたらどうなっていたか?

家光までは、旗本層にとってみても、「生身の将軍」でしたが、病弱であった
家綱は「生身の将軍」ではなく、「象徴の将軍」ともいえる存在でした。

また、初期鎌倉幕府における北条家の力も抜きん出たものではなく、多数の中の
一人。そもそも 生産の低い 伊豆国の下級在庁官人でしかなかった。
スタートラインとしては、酒井のほうが上なのです。

482 :日本@名無史さん:04/05/19 04:26
>>481
俺は堀田の秘密裏の綱吉との密談が例えなくても
事実上の酒井幕府形成は阻止されたと思う。
酒井には高禄、高位が与えられても権威の永続に不可欠である
軍事の統帥を手中にしていないし、領土も微々たるものでしょう。
家康の祖法がなければおそらく酒井は権勢を利用して外様あるいは
譜代をつぶして自らが収め、自由に使える藩兵を使い簒奪を一層
具現化したと思われるが、現実には堀田に先手を打たれると形勢挽回
できなかったんですよね。
これが戦国期や室町期や鎌倉期であれば政争の敗北を軍事力の優越で
挽回できたけど、酒井には無理だったわけで。
そもそも、堀田が阻止できなくとも、酒井の専横は有名だったので、
幕府の軍事力の中核を担う旗本らが酒井の「権威」に従うかどうか
疑問に思う。
幕政の壟断のみならず宮将軍を迎えるのはかの北条の執権政治同様
実質、酒井の意向で幕政を動かし、権威を永続化するだろうとは容易に
想像できる。
御三家、会津、甲府、彦根、高松・・・ありとあらゆる所で挙兵するんじゃ
ないかな。


483 :日本@名無史さん:04/05/19 04:32
また、初期鎌倉幕府における北条家の力も抜きん出たものではなく、多数の中の
一人。そもそも 生産の低い 伊豆国の下級在庁官人でしかなかった。
スタートラインとしては、酒井のほうが上なのです。

北条は三浦、比企らを合戦で(実力で)政権から排除し、打ち滅ぼして
いった。
酒井が政権簒奪するためには幕政の掌握(これは実現した)
宮将軍の擁立(権威の確立)だけではだめで、幕府の軍事力の統帥権の
掌握(宮将軍の権威を中核たる旗本や本多、井伊、榊原、水野らが服従
せねばならない。そんな事がありえるのか? 即刻領地に帰り挙兵すると思うが)



484 :日本@名無史さん:04/05/19 06:58
>>479
>高位につけど、室町のよう当時としては軍事力の裏付けとなる
>御料地の確保ができない

まず、譜代大名の官位は基本的に外様雄藩の藩主より低い。
あと、室町幕府も譜代の武家にさほど大量の領地は与えていない。

>>480
天領は約400万石。
旗本領は私領であり、幕府直轄地ではない。


485 :日本@名無史さん:04/05/19 09:22
>>462 幕府の指針を東照神君の時分に戻すと将軍の名をもってすれば
何ら問題はない。

一次柳営が雅と化した時に、吉宗は東照神君の御世に戻すと指針を発
表した事があったが、時の大奥も神君の名を持ち出されては従わざる
負えなかった事例が示す通りだ。

486 :日本@名無史さん:04/05/19 09:31
>>478 となると信康存命であったら、奥州征伐、九州征伐も有り得たかも

487 :日本@名無史さん:04/05/19 10:41
>>483
このうち滅ぼし方が・・・
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mikage/battle.htm
1203 比企の乱
先手を打って仏事と称して能員を時政邸に招いた。
能員は一族の反対を押し切って疑いももたず時政邸にいき、
待ちかまえていた時政の家人に首を刎ねられてしまった。
1205:畠山重忠・重保親子の誅殺
鎌倉に向かっていた重忠は、わずかな手勢しかつれておらず、
二俣川(横浜)まできたところで大軍に囲まれ討ち取られた。
重忠の手勢はわずかに134騎、
===
と、小さなクーデーターの積み重ねなのです。

488 :日本@名無史さん:04/05/19 11:06
話がずれ過ぎだよ。

489 :日本@名無史さん:04/05/19 12:31
>>486
その「もし」は思いつかなかったけど、あと数年、生き残ったら、あるいは
黒田如水が裏切ったとして息子(後の長政)を殺せと命令されたのに対して
殺したと報告しておいて助けたように、隠せおおせたら・・・
1:関が原での、秀忠の失策は なく 徳川主力による決着になる
→ 豊臣系東軍への過剰な恩賞は不要になる。
2:可能性としては、信康と五徳との間に嫡子がうまれたであろうから、
→ 血統というか信長からの血の濃さでは、秀頼=信長の姪の息子、○○=信長の孫
前田や蒲生・池田などには微妙な影響を与えただろう
3:>>486 の仮説のように、徳川家二代にわたる長期計画での簒奪プランも成立する
→ 魏を簒奪した司馬家や メロヴィング朝を簒奪した カロリング朝のように

と、考えると、薩長など有力外様を残したのは、家康に武略的に信頼できる成人の息子が
いなかったからとも言えますね。

※ また 世界板に行けといわれそうだけど、今日のイギリスがあの形になったのも、
たまたまチューダー朝に後嗣がいなくてスコットランドのスチュアート朝がイングランドの
王家にもなったというのが大きな理由ですよね。

490 :日本@名無史さん:04/05/19 12:45
名誉革命時にオランダから国王むかえているじゃん

491 :486:04/05/19 14:33
>>498 出来の悪い倅であった為に、外様諸侯を残さざる終えなかった。
だから家康は、封建制度と言うシステムを選んだ。
もし信康存命であったら全国制覇を成し遂げ、専制君主制度になってい
たんですかね?

それは別として、信康が家康程長生きしていれば、家康の意思を継いで
貿易国家に成り得たかもしれない。と妄想しちゃうなぁ。

492 :日本@名無史さん:04/05/19 15:58
つーか、将軍家の石高とかから見て。

「負けるはずがない」と思っていたんじゃない?



493 :新井君美:04/05/19 17:09
旗本奴とかいって泰平の世に鬱屈していた連中が元気なうちに動員かけちまえば良かったんだよな。
幕末になると堕落して全然使い物にならなかったんだから。
幕末の旗本は存在自体が滞在

494 :日本@名無史さん:04/05/19 22:40
>>491
妄想ついでに。
家康が、秀忠に女を紹介したら丁寧にお返ししたなんて話が残っていますね。
既定方針で、秀忠に家督を相続させざるを得なかった家康としたら、
「時間よ止まれ!」という制度が封建制度かもしれません。
※ 秀忠の官位が秀康よりずっと先行してあがったことなどから、秀忠の家督相続は
規定路線であったでしょうし、60を越していつ死んでもおかしくない年齢になってから
生まれた御三家の御曹司達では(結果的に優秀な人物になろうと)おっかなくて
相続させられませんよね。

495 :日本@名無史さん:04/05/19 22:44
薩摩が貯金していたのに幕府は貯金から下ろしてばかり。

496 :日本@名無史さん:04/05/19 22:48
>>490
王家(この場合徳川宗家の話題ですが)の血の偶然の恐ろしさの例です。ちなみに
スチュアート朝はカソリック オランダのオレンジ公ウィレムはプロテスタントなので、
宗教的にはウィレムの方が受け入れやすいと思うのですが、英蘭合邦はなかったですね。
1648年のウェストファリア条約前後でオランダが国民国家としてもう、異物を受け入れられ
なくなっていたせいかもしれません。
1603年 スチュアート朝
1648年 ウェストファリア条約
1688年 名誉革命


497 :日本@名無史さん:04/05/19 22:48
息子に女を紹介する親父ってすごくいや。

498 :日本@名無史さん:04/05/20 09:52
>>496
ステュアート家は、確かにもともとカトリックなのだが、ジェームズ1世やチャールズ1世は、スコットランドに国教会を押しつけているので、一概に宗教だけでどうこう言えるものでもないと思う。
テューダー家だってヘンリー8世以前はカトリックなんだし。
それに国教会は、プロテスタントとは言いつつ、教会のトップがローマ教皇から英国王に変わっただけで、組織はカトリックと大差ない。
国教会は、元々ヘンリー8世の離婚問題からできたもので、教義的にもしっかりと確立したものがあったわけではないのを、エドワード6世やエリザベス1世の時代にカトリック圏との対立上、半ば強引に国教会の新教化が図られたのが実態。



499 :日本@名無史さん:04/05/20 10:02
>>496
>オランダが国民国家としてもう、異物を受け入れられ
>なくなっていた

そういう問題ではないと思う。
西欧の王室の継承は、基本的に血縁関係が全て。
名誉革命で即位したメアリー2世とウィリアム3世の場合、英王家(ステュアート家)の血はメアリー2世が、オランダ総督(オラニエ家)の血はウィリアム3世が受け継いでいる。
なので、この2人の間に子供が産まれなかった以上は、次期英王はメアリー2世の親族へ、次期オランダ総督はウィリアム3世の親族へと継承されるのが自然な継承方法。
よって、この2人に子供がいない以上、英蘭合邦は一代限りで終わるのは当然の成り行きだったと言える。

500 :日本@名無史さん:04/05/20 10:26
センセー方。
学問板向きの話題であることには異論ないですし、興味深いけど
板違いだとおもうので、世界史板で派生スレ立てた上でこのスレに
リンクして移動してもらうべきだと提案します。

501 :日本@名無史さん:04/05/20 10:35
>>495
釣られてやる。
薩摩が貯金したのって、調所が莫大な借金を棒引きしたのと密貿易による
もので、幕末の一瞬のことに過ぎない。それでも貧乏藩であることに変わ
りはなく、西郷隆盛の生家など赤貧だった。第2位の大藩といっても所詮
は表高であり、実高は半分あったかも疑わしい。

502 :日本@名無史さん:04/05/20 10:35
オランダは、新教とはいってもカルヴァン派だからなぁ。
新教諸派のなかで、一番保守的といわれる英国国教会と、一番急進的といわれるカルヴァン派が、そう簡単に互いを受け容れられるだろうか?
だからこそ、ウィリアムとメアリーの即位に際して、英議会が提示した即位条件のなかに、敢えて「国教会の尊重」という文言が入っているわけだし。

503 :日本@名無史さん:04/05/20 10:40
>>490
その後、ハノーヴァーからも王家を迎えている。
1714年のジョージ1世の即位以来、1837年までイギリスとハノーヴァーは同君連合。
1837年のヴィクトリア女王の即位に際し、女子の継承を法的に認めないハノヴァーとの同君連合が解消されるまで。
まあ、もしイギリスとハノーヴァーの同君連合がその後も続いていたら、プロイセンによるドイツ統一時のハノーヴァーの立場はかなり微妙なものになっていたでしょう。

504 :日本@名無史さん:04/05/20 10:42
>>496
オランダは国民国家になったあとも、ルクセンブルクなんかと同君連合を形成したりしている。
国民国家=他国と合邦しない、というわけでは必ずしもない。

505 :日本@名無史さん:04/05/20 10:51
話題がないからって世界史の乏しい知識をひけらかすなよ。
世界史をここでやるなよ。


506 :日本@名無史さん:04/05/20 12:40
世界史ウザイ。

507 :日本@名無史さん:04/05/20 12:42
世界史板でスレ立てればすむ話だよな。

508 :日本@名無史さん:04/05/20 13:25
田沼政権がもう少し長く続いていれば、徳川幕府は鎖国撤廃も有り得た
し、米本位から脱皮した武士が深く経済活動に参加する体制が構築でき
た。そうなると、黒船来襲などと必要以上に脅威を抱く事は無かっただ
ろうし、長州、薩摩などの出番は無かったハズ。

509 :竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/05/20 15:07
>>497
学問スポーツともこなす万能、妻子を平然と殺すタフさ(並の人間なら
この一件だけで精神病に罹る)、底知れぬ性欲(晩年は中学生をいて
こます)、家康は本当に超人だ

510 :日本@名無史さん:04/05/20 18:22
>>504
確かにオランダとルクセンブルクは1815年から1890年まで同君連合と
されていますが、実はこの頃のルクセンブルクはオランダ王室の私領扱いなので、
例えば二重帝国時代のオーストリアとハンガリーみたいな一般的な同君連合とは
異なります。板違いなのでsage

511 :日本@名無史さん:04/05/20 18:24
>>510 いい加減にしろ。世界史板に逝け

512 :日本@名無史さん:04/05/20 19:09
世界史板で継続スレを別に立てろというのに・・・。
こりゃ確信犯かもわからんね。

513 :日本@名無史さん:04/05/20 19:29
>>508
歴史にIFは禁物とよくいうが、
IFの大盤振る舞いだなw

514 :日本@名無史さん:04/05/20 19:44
>>511
元々>>489が最初にこの話をはじめたんだよな。
まあ日本史を外国史と比較対照して考察する手法なら、別に板違いでもないと思うが。
むしろ、世界史板で日本がらみのスレ立てると日本史板逝けと言われることも多いし。

515 :日本@名無史さん:04/05/20 19:49
これはダメかもわからんね

516 :日本@名無史さん:04/05/20 23:45
比較対象にしては随分と明後日の方向に飛躍した感があるが。
議論自体は真面目な物だから無下にはしないが、世界史で別に
スレたてるなり、この板で比較スレを新規にたてるなり工夫してみては
どうかな。

517 :489:04/05/21 00:08
>>516
もろもろ、すみません。
本日は、一日外回りの営業だったので、西欧史になって反省しております。
ここまでの、自分のまとめ。

徳川幕府は何故薩長など(有力外様)を取り潰さなかった?

取り潰せない徳川家側の理由があった。

家康の年齢と、息子たちの年齢の問題から、武断的に全部を潰していくより、
「生かさず、殺さず 生殺し」で、軍事的才能がない子孫でも将軍位を保てる
体制作りに余生の力を傾注した。その主業務が将軍家の藩屏作り(御三家その他)と
豊臣潰し。

518 :日本@名無史さん:04/05/21 00:54
>>517
ということで、日本史上の権力創成期における初代と二代目を考えてみた。
いかに、権力機構を作るのが大変なのか。初代死亡時の二代目の年齢一覧
天智天皇 大友皇子 23歳 壬申の乱で敗北
天武天皇 草壁皇子 24歳 その後二年後に死亡
→ 天武系 天智系と血統を分けるときに、草壁の早死にが結果的に 天智系に戻ることに・・・
平清盛 重盛(すでに死亡) 宗盛 34歳
源頼朝 頼家 20歳
北条時政 義時 42歳(時政死亡前に、義時によって時政失脚)
北条義時 泰時 41歳
足利尊氏 義詮 28歳
織田信長 信忠 26歳(信長と同時に死亡) 信雄・ 信孝(26歳) 秀信(三歳)
豊臣秀吉 秀頼(5歳) 秀次(30歳/生きていれば)秀勝(30歳/生きていれば)
徳川家康 秀忠(36歳/関が原時21歳)信康(41歳/関が原で生きていれば)
===
関が原の段階で、家康はあと何年くらい生きれると思っただろうか?
結果的には、75歳という当時において長命を保ったが・・・
体制が安定していない段階において、実績のない二代目が継いだ時、その権力は
不安定になる・・・と一般的に言うには強引かもしれないが、家康が熟読したという
吾妻鏡での執権北条家は二代目義時・三代目泰時は、継いだ時40過ぎのすでに
実力者。その後短命の得宗が続くが、その段階ではまだ得宗体制は万全だった。

「危ない 危ない 秀忠の実績のなさは・・・」関が原が初陣だったのですから。

519 :日本@名無史さん:04/05/21 02:46
家康が関が原直後にあぼーんしそうになれば
秀康を後継者にするんじゃないの?

520 :日本@名無史さん:04/05/21 08:54
>>518 家康に比べ、武略も、政策能力も秀忠、家光は及ばなかった。
秀忠の実力は親子共々、劣ると痛感している節があり、大御所として
も徳川政権の体制作りが急務であり、危ない外様を根絶やしにする強
硬路線を改めざる負えなかった。

鎖国政策についても、キリスト教の植民地支配に対する防衛策的な名
目を掲げているものの、その実は西洋諸外国の周旋をする外交官僚が
幕府に居なかった為だと思う。考えるに鎖国政策は生類哀れみ、奢侈
禁止、と同じ位愚策と言える。

521 :日本@名無史さん:04/05/21 13:30
鎖国政策が愚策か・・・キリスト教国のそれまでのやり方みてそう断言
してるのか?おまえ歴史なんかやめちまえ。

522 :日本@名無史さん:04/05/21 13:57
薩・長は潰すほどの脅威ではなかったから。
幕末においても三勤交代を廃止しなければ明治維新はなかつた

523 :日本@名無史さん:04/05/21 14:05
ま、敵の存在が味方を作るってことじゃないかな。


524 :日本@名無史さん:04/05/21 14:44
いまさらだけど、
薩長を取り潰すような徹底的な強圧政権だったら
外様が恐怖でパニックになり反乱を起こしてしまい、
江戸幕府は短期のうちに倒れていたと思う。
江戸幕府はアメとムチを使い分けてたからこそ
300年の長期政権を持続させる事ができたのであって、
意味もなく外様を取り潰しているようでは
恐怖ですぐにダメになっただろう。

てっいうか300年も持てば十分すぎるほど成功だろうが、
ましてや幕引きの時に徳川一族や幕府関係者が虐殺されたわけでもなく、
爵位などを授けられて悠々自適なんだからね。

525 :日本@名無史さん:04/05/21 14:51
>>524 全然違うよw
薩長は西軍。
潰されても誰も驚かない。
徳川に忠誠を誓って働いていたのに潰されたのなら話は別だがね

526 :489:04/05/21 14:52
>>519
権威というか 権力というか 正統性というものは、一朝一夕で作れないと考えます。
秀忠は、秀康に対して一度として官位が下になったこともなく、家臣の年賀を受けるときも
浜松時代においてすでに、家康の脇に座って秀忠は年賀の挨拶を受けていました。
秀康の正統性を造るにはどうしたらよいか?
1:官位をあげて秀忠に逆転させる
2:秀康の実績を作る
3:正妻の位置を上げる
このくらいでしょうか・・・1は時間がかかります。2は関が原において、実は秀康は
作れなかった、大将格としての実戦は実は秀康も関が原が初陣で、上杉の押さえ
という、地味な役回りしかできなかった。四男忠吉と位置が違って、関が原の実戦で
実績が作れていたらまた、換わっていたかもしれません。
3の正妻の位置を上げるという方法もあるかもしれませんが、これもちょっと時間が
必要かと。相手としては天皇家か五摂家くらいになるでしょうが。
悪手として、豊臣姓を使うというのもありますが、これでは秀頼の処置がつらくなる。

527 :489:04/05/21 15:03
>>525 >>524
御二方の文章を読んで、ひとつ抜本的な事を忘れていました。
関が原の戦争目的です。その目的の元で勝ったのですから、戦後処理は
その目的に基づいた方針で行われます。
目的が「君側の奸を除く」だったわけです。決して徳川の天下を作るではなかった。
大きく見ると、関が原前から大坂の夏の陣までは、家康による、「戦争目的の摩り替え」
作業の時代ではなかったのでしょうか?
中国の天命思想のように、「すでに豊臣の天下は終わった、氏姓革命によって徳川にする」
というような目的で関が原の戦いに家康が持ち込めるほど、徳川が強ければ、
有無を言わさず、毛利・島津も潰せたのかもしれない。
その代わりに、東軍につく兵力も減って、勝利がおぼつかなくなったでしょうが。

528 :日本@名無史さん:04/05/21 15:06
関ヶ原以後の話しだろうがw

529 :日本@名無史さん:04/05/21 15:09
489が引っ掻き回すようになってから急にスレの雰囲気がおかしくなってきた。
君もうこなくていいよ。

530 :489:04/05/21 15:10
>>526
2の秀康の実績について
どこかの選書で、小田原北条家をケースに、後継者の実績と群臣の承認問題を
書いている書籍がありました。10年位前の書籍なので、ちょっと題名は忘れたのですが。
激しく実力主義の戦国時代では、部下のほうも、世代交代した主家が気に食わなければ
移転しちゃう(後藤またべぇみたいに)後継者は、実戦でその力を証明する必要があった
というのを、北条五代で証明しているような本だったのですが・・・う〜ん本屋で日本史の
コーナーを眺めたのですが 見つかりませんでした。どなたか ご存知でしょうか?




531 :日本@名無史さん:04/05/21 15:11
上杉の押さえというけど、後詰はえらく難しいよ。
上杉が追撃していたら、大規模な合戦は引けられなかった。
その上で秀康が遅滞戦術に成功していたら、秀忠と立場の逆転も
ありえたかも。

532 :489:04/05/21 15:18
>>529
あの 一応 >>30の発言から参加しているのですが。
このスレッドの1割くらいは、私の書き込みです。
世界史に振ったのがちょっと趣旨を散漫にしてしまったなと反省をこめて489と
書いています。

533 :日本@名無史さん:04/05/21 15:25
いずれにしてよ論外って事で

534 :日本@名無史さん:04/05/21 15:25
>>489 だから君が世界史の話題を唐突に言い出したあたりから特におかしくなっているんだよ。
邪魔でウザいんだよ。反省しているんだったら帰ってくれ。不必要だから。
君の生半可で中途半端な世界史の知識など殆どの人は関心がないから。

535 :日本@名無史さん:04/05/21 15:31
関ヶ原後に家康が危篤状態になっていればどうしていただろうな。
秀忠の器量で大阪の陣に持ち込めるとおもうっすか?


536 :日本@名無史さん:04/05/21 15:37
ここはタラレバを語るスレでつか?

537 :日本@名無史さん:04/05/21 15:38
秀忠のころから官僚組織が充実してきて、それまでの家康の個人商店的な印象だから、
恐らく、本多正信あたりが影武者を見つけてきて、大御所政治を断行したであろう。
「家康の死は、それから1年、徳川政権安定に至るまで伏せられ、翌元和2年4月、
はじめて病死として公表された」

538 :日本@名無史さん:04/05/21 15:43
関ヶ原後の家康は世良二郎三郎であることは歴史の闇に消えていった
真実。
大阪夏の陣後に秀忠に毒盛られて暗殺された。

539 :日本@名無史さん:04/05/21 15:48
まさか

540 :日本@名無史さん:04/05/21 16:00
家康は竹千代の頃、今川に殺されていた

541 :日本@名無史さん:04/05/21 17:45
>>521 勿論知った上で、鎖国政策が愚策であると言っています。
それにいくら2ch/煽りはつき物とは言え無礼極まる。歴史を止めろなどと
高慢な口をきく前に、ご自身の人格形成に矯正を加える事をお奨めする。

話を戻して、鎖国政策は「怖いから付き合うの止めるわ」と言ったネガティブ
な発想から発令されたものだ。
東照神君の志した一大貿易国家を構築し、貿易によって日本を富ます計画を捨
てた事は、徳川だけでなく日本の不幸だった言える。し幕閣の責任は大きい。

さらに付け加えれば、家康はウイリアム・アダムスなどから西洋諸国の植民地
政策などの情報を得ていて、それを知った上で交易を結ぶ決意をしている。当
然家康には、侵食されない自信があったればこその英断だった訳だ。

542 :日本@名無史さん:04/05/21 19:36
>>541
いくら家康がそう決心してたとしても植民地化はまぬがれない
いったいどういう軍事的裏付けがあって植民地化を防ぐのよ?

543 :日本@名無史さん:04/05/21 19:47
「交易を結ぶ決意をしている」というが、家康の場合、基本的に秀吉の貿易
政策を踏襲したわけで、「英断」と持ち上げるのはどうかと。


544 :日本@名無史さん:04/05/21 19:58
家康はアダムスをシャムに派遣して交易許可をもらいにいかせた。
帰ってきたら家康はなくなっており、秀忠が家康の政策を反故にしたので
家康は死の直前まで海外交易を止める意図がなかったと思われ。

545 :OHU:04/05/21 23:39
家康が毛利・島津を取りつぶさなかったのは、実は徳川家にとっても幸せなことだったんです。
あれ以上 江戸幕府の統治が続いていたら、日本は西欧の植民地になっていたかも
しれないし、国が立ち行かなかったでしょう。
薩長は徳川家を処罰せずに残したんだから、寛大な処置だった。
だから家康が毛利や島津を残したからこそ、徳川家も助かったんですよ。

546 :日本@名無史さん:04/05/21 23:44
鴨かももし鴨。

547 :日本@名無史さん:04/05/22 00:16
世界史の話題になるとすぐに目くじら立てる日本史専門ヲタってキモいね。w

548 :日本@名無史さん:04/05/22 01:13
戦国の日本は銃の普及は世界レベルだよ。
鎖国せず世界の銃開発技術を導入し続けたら問題ないんじゃね?

549 :日本@名無史さん:04/05/22 01:42
このスレの西洋史ネタは世界史板レベルだよ。
目くじら立てずにこの話し続けたら問題ないんじゃね?

550 :日本@名無史さん:04/05/22 01:46
>>548
普及というか。
戦国時代には全世界の銃の半数は日本に会ったと言われる。

明治維新にも同様で世界中の余剰兵器が日本に集中した。

551 :日本@名無史さん:04/05/22 02:15
余剰兵器ってクリミア戦争のアレとか南北戦争のソレとかか?

552 :日本@名無史さん:04/05/22 02:28
>>541

鎖国が愚策かどうか分からないが、家康にもその後の徳川幕府にあったのも
貿易の独占と、軍縮じゃないの。
貿易の独占では
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/theme/itowapu.html
のように、糸割符貿易など、主導権をポルトガルから、日本側(=徳川)に持ってくる
施策をおこなっており、軍縮という視点で見ると、17世紀初頭(=徳川幕府開始)ころ
にようやく硝石の国産が始まった。
http://www.oita.isp.ntt-west.co.jp/emati/kanko/nanban.html
確かに、鉄砲は世界中で一番数を持っていたらしいですが、日本、火薬の原料の
一つである硝石は輸入に頼っていた。
その硝石輸入を、幕府管理できれば、大幅な戦闘力削減になります(輸入は幕府だけ
ならば、幕府の戦闘力は落とさずに)

553 :日本@名無史さん:04/05/22 02:30
いや、普墺戦争のアレとか普仏戦争のソレとか。

554 :日本@名無史さん:04/05/22 02:50
いや、朝鮮戦争のアレとかヴェトナム戦争のソレとか。


555 :日本@名無史さん:04/05/22 03:22
明治維新て薩長が徳川への遺恨だけで成立したものなののような印象受けるけど?264年という年月は半端じゃないよ。長いよ。その間の人心の移り変わりって一括りできるようなものでもないし。
確かに薩人と長人の264年は気合が入っていたのかもしれないけれど。それにしたってそれぞれのお殿様たちはイイ生活の中にいて骨抜きになっていたんじゃないかね。
私は直参の子孫だけど、色々調べて考えた結果、あの維新てものは、「武士の時代」の終焉だと思っている。(でなきゃ今頃薩長に復讐しなきゃ。)
だから維新に伴う戦いっていうのも薩人、長人、土佐人等々の日々の暮らしにリアリティーがある下級層と貴族化したブルジョワの戦いであって、「関ヶ原」は関係ないと思うよ。
所謂「革命」なんだけど、日本人である故にそこをうまく切り抜けて海外勢に付け込ませなかった。
単に国内で「天下とった」とかそんな小さい話じゃなくて、もっと未知の相手に50年後、100年後に負けないようにするための様々な人の様々な工夫の集大成だと思う。
どなたさんか辞世したっていう「国のため 捨てる命は惜しまねど 心にかかる国の行く末」
さぁ、今がその100年経た日本だ。
マジスレしちゃいけなかったらごめんなさいよ。

556 :日本@名無史さん:04/05/22 03:31
大河ドラマ「飛ぶが如く」より

(明治維新4年前)
西郷隆盛「始めて御意を得もす。薩摩藩士西郷吉之助にございもす」
勝海舟「勝でござる。遠路はるばるご足労でござった」
・・・・・(中略)・・・・・
勝海舟「はっきり申し上げて、今の幕府に任せておいたら、まず日本は滅びますな。幕臣としちゃーちっと寂しい話ですんがね」
西郷隆盛「・・・勝先生! これまで幕府は倒れんもん、倒したらならんもんち思うとりもした。ありがとうございもした・・・」


557 :日本@名無史さん:04/05/22 10:00
>>555
維新から50年を待たず、38年後の日露戦争に勝つ日本

558 :竹田丹後守 ◆gVkD2onhQc :04/05/22 14:39
>>555
それにしても、よくも下級武士が軍隊指揮権・予算分配権を藩から奪取できましたな



559 :日本@名無史さん:04/05/22 16:11
>>555
倒幕薩長関が原の怨念説
というやつは、結果として倒幕主体が、幕末前に藩政改革に成功した雄藩で、
その雄藩の主力が薩長だったということから「あとづけ」でできた説でしかないんじゃないの。

「そういえば、皆さん、藩祖も徳川に苛められたし」

というスローガンは単純で分かりやすいから、使ったという側面があるかと。

>>558
藩政改革に成功した雄藩でよく見られるのが、下級武士と藩主とが直結して、
藩政改革を進めたという点。
大河ドラマで斉彬役の加山雄三が、庭先で隆盛訳の西田敏行に直接指示している
シーンがあったのですが、あれは結構シンボリックな演出だったと思います。
公式な権力構造をバイパスさせることで藩政改革が進行できた。

出自云々による、能力の差はこの際置いといて、単純に確率で考えると
家老職を継ぐ有力数家から改革の実行者を選ぶよりも、数千人もうるであろう
下級武士層から人物を選んだほうが、優秀な人物を選びやすいでしょう。

下級武士の登用が、藩政改革の成功と実権を下級武士にとられるという
諸刃の刃だったのだと思います。

560 :日本@名無史さん:04/05/22 20:15
使いやすいというのもあったんじゃないの?
有力者の家系より信賞必罰しやすいし、何かあったときも責任を
とらせる事ができるとの計算もあるはず。
無論、下級藩士も分かった上でなりあがるには藩主の思惑を飲む以外に
選択肢などありはしないけどね。

561 :日本@名無史さん:04/05/22 23:54
>>555
その和歌ってただしくはこうだろ。

君がため
捨つる命は
惜しからで
ただ思はるる
国の行く末


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