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二クラス・ルーマン

1 : :04/01/13 04:11
スレが落ちていたので立てておきます。
機能分化、複雑性の縮減、システムの自己準拠 二重の偶然性、オートポイエーシス、システム/環境の区別・・・・・・、
などなど、難解と言われるルーマンの社会理論への理解を深めていきましょう。
もしご存知でない人は以下の文献参照。

参考文献
ルーマン『法社会学』『社会システム論』『近代の観察』
馬場康雄『ルーマンの社会理論』

2 : :04/01/13 04:18
ルーマソ。

3 :法政策社会学:04/01/14 12:31
法理学的視点からルーマンの社会システム理論を解している者ですが、法と
いう規範的なフレームワークのなかに「望ましい結果」という認知的要素を
一定程度以上持ち込むことは、法システムの過剰負担を増大させることにつ
ながるとルーマンは警告するため、現在論議がさかんな「法化」現象につい
て有効な理論を引き出せません。G.トイプナーというポスト・ルーマン派の
法システム理論家について詳しい方はおられますか?


4 :魏伝図:04/01/17 19:30
>>3
>法という規範的なフレームワークのなかに「望ましい結果」という認知的要素を
>一定程度以上持ち込むことは、法システムの過剰負担を増大させることにつ
>ながるとルーマンは警告

うーん、俺もあんまり詳しくないので質問するんだけど、
「望ましい結果」は明らかに抗事実的な、その意味で
認知的というよりは規範的な要素のような気がするんだけど?

この文脈で言えば、認知的/規範的というよりは
目的プログラムと条件プログラムの差異が焦点になっているのではないでしょうか?
目的プログラムは特定の結果に焦点を合わせ、
条件プログラムは特定の条件に焦点を合わせる。
で大まかに言えば、条件プログラムに従った決定者は
その選択の結果の責任を問われるリスクを引き受ける必要はなくなる。
その責任は、問われるとすればプログラムの作成者に向けられる。

詳しくは、例えば福井康太2002「法理論のルーマン」(勁草書房)の
第五章121-からの法的論証と法律効果の議論を参照して欲しいんですが
かいつまんで言えば、裁判官がその判決によってもたらされる結果に対して、
あるいは「望ましい結果」の成否に対して責任を負わされ得るならば、
ほとんど判決を下すことができなくなってしまうだろう、と。

仮に結果への配慮を為し得るとすれば、まさしく単に
配慮するということだけであって、その実際の成否には裁判官は何ら責任を負わないし
負ってしまうと判決が下せなくなる。
ルーマンが述べているのはそういった議論ではないでしょうか?
「法化」についてもあんまり詳しくないので見当違いかもしれませんが。

5 :法政策社会学 :04/01/18 00:56
>>4
高度な内容の長文レスポンスありがとうございます。

私が>>3の前段で論点としていた部分は、福井氏の著書によれば、
魏伝図さんが示して下さった箇所がまさしく相当します。

まず、
>「望ましい結果」は明らかに抗事実的な、その意味で
>認知的というよりは規範的な要素のような気がするんだけど?
についての私の見解としては、ここで言う「望ましい結果」というのは、
先の福井氏の著書によれば、法的論証における「利益志向」にあたるものです。
これは、「恣意性」を伴うものであるから、私は「認知的」と解し、
そしてこの「利益志向」の限界に言及したわけです。

ここで、魏伝図さんのおっしゃるように、
>目的プログラムと条件プログラムの差異が焦点になっているのではないでしょうか?
>目的プログラムは特定の結果に焦点を合わせ、
>条件プログラムは特定の条件に焦点を合わせる。
といった法プログラムによる「結果志向」に照準を合わせる面から見た場合、
>仮に結果への配慮を為し得るとすれば、まさしく単に
>配慮するということだけであって、その実際の成否には裁判官は何ら責任を負わないし
>負ってしまうと判決が下せなくなる。
と帰結することになる。

つまり、「利益志向」、「結果志向」のどちらに準拠しても、ルーマンの社会システム理論からは、
「現代法」と言われるような、法の“政策化”に対してアンチな結論しか出せないことになり、
私は泣き出したくなるのです(;_;)
何か強力な理論構成を持ってして、ここに風穴を空けてやりたいというのが、私の構想です。

6 :魏伝図:04/01/18 02:10
法の政策化についてはわからないので
俺はなんとも言えないですねー。
詳しい方が降臨するのを待つしかないみたいです。

トイプナーは名前は聞いたことはある程度しか知らないですね。
ただトイプナーに関しては俺も
Teubner/Gebbrajo, eds., State, Law, and Economy as Autopoietic Systems(1992)
という編書に関心を持っているんで
もし詳しい方がいらっしゃれば俺もちょっと
意見を伺いたいです。


7 ::04/01/18 02:20
哲板によく書きこむ者ですが、ルーマンにはかなり興味があります。
このスレを参考にします。

8 :法政策社会学 :04/01/18 06:43
いきなり変則的な視点からルーマンに切り込みを掛けてしまってすみませんm(_ _)m
「システム論スレッド」でルーマンの基本的な素描の議論はお見受けしましたので、
それとは異なる切り口から、いわば応用的な側面の可能性というか、
哲学版におけるしろうと氏のような振る舞いが、2chゆえのおもしろさだと思ったりしたもので…。
>>1のスレ主の方のご意向に反しておられましたら、何卒お許し下さい。

>>6
トイプナーについては、とりあえずその筋の方待ちということで、
ルーマンの「社会システム理論」対ハーバマスの「批判的社会理論」という観点から、
ルーマンの考察を深めてみたいんですけど。どうでしょう?
大雑把に言えば、社会秩序の維持・制御は「システム論的な信頼」に基づくべきか、
それとも「討議によった普遍的合意」に基づくべきか(『経kei』2003/12月号の宮台真司氏の文章を参照)
という設定で展開してみたいのですが。

9 :通りすがり:04/01/18 11:02
>現在論議がさかんな「法化」現象

もう盛んじゃないです。トイプナーが法化という論文を書いたのは1984年です。

>「望ましい結果」の成否に対して責任を負わされ得るならば

『法システムと法解釈学』を読むといいです。訳は酷い。

>社会秩序の維持・制御は「システム論的な信頼」に基づくべきか、
>それとも「討議によった普遍的合意」に基づくべきか
>という設定で展開してみたいのですが

ルーマンの勝ちでおしまい。
それより、あなたは「法政策社会学」を自称するなら、具体的な政策論に応用した方がいいと思います。

10 :魏伝図:04/01/18 14:54
>>9
『法システムと法解釈学』ね。紹介ありがとう。
今情熱としての愛を読んでるのでそれからかな。
読んでると三上さんの言ったことがよくわかるよ。

>>8
>社会秩序の維持・制御は「システム論的な信頼」に基づくべきか、
>それとも「討議によった普遍的合意」に基づくべきか

ハーバーマスとルーマンの論争は、>>9氏が述べているように、
どう読んでもハーバーマスの分が悪いように思います。
信頼か、合意か、という文脈に限定してみても、結局ハーバーマスも
メディアを(コミュニケーション・メディアとシンボリック・メディアを
一応は区別するわけですが、これは問題の先送りにすぎません)
持ち出さざるを得ないわけです。
言い換えれば、制度的、コンテクスト的要素を除外したはずの
討議において、まさに制度的なものを持ち出さざるを得ないわけです。
互いの参加者のコミュニケーション能力に「のみ」基づいた
討議という議論はこの時点で破綻しています。
既に多くの人によって言われていることですが。

ただ、ハーバーマス/ルーマン論争をこのスレでもう一度
検討しなおしてみる、というのは面白いかもしれません。

11 :法政策社会学 :04/01/18 19:06
>>9
そうなんですよね。「法化」についてはドイツを中心にして、
その時期に論争の的になっていたようです。
ただ、私が現在形を用いたのは、今日の日本において、
実務の場面でその動きが活発に顕在化してきているからなのです。
自治体における政策法務というものなどの動きがそれです。
来年度からゼミが始まりますので、9さんにご指摘頂いたよう、
具体的な政策論に応用していけるような勉強をしていきたいと私自身も考えております。
それから、ハンドルについては自分でも多少力みすぎた感があります(-_-;)…。

『法システムと法解釈学』。私も是非読んでみることにします。紹介ありがとうございました!
もしできたら、トイプナーについての有力な文献も教えて頂きたく思います。

>>10
>どう読んでもハーバーマスの分が悪いように思います。
私も同感です。ゆえにルーマンを引いた法政策学的思考を試みたいと思うのですが、
これが上手くドッキングできないで喘いでいます。単に私の勉強が足りないだけなのかもしれませんが…。

この論争で思うのは、ルーマンの社会システム理論が現実的な認識として
強力な理論であることは間違いないのだけど、ハーバーマスやロールズの
実践哲学的地平もやはりある程度は残存して有効なのではないかと。
後者が全否定されえない“何か”があるような気がするのです。
というのも、井上達夫氏の著作なんかを読んでみますと、むむむ(−−)と思わせるものがあったりするし、
東浩紀氏が言う「動物化」への対抗論理として、結局はこの地平を想定せざるをえないのではないかと思うのです。

12 ::04/01/20 01:19
しょっぱなからかなり高度な議論が展開されてますね。
私自身はそれほどルーマンには詳しくなく、おそらく無数にあるであろう間違いの指摘をお願いします。

私はハーバーマスとの論争しか突っ込めませんが、つまりはコミュニケーションを可能にする前提についての議論だと理解しています。
つまりハーバーマスは「討議」を通じた普遍的な価値規範の共有を考えたのに対して、
ルーマンは互いにシステムを共有しているという現実認識それ自体をその前提として考えたと言えます。
繰り返し言われていることですが、この議論はルーマンのほうがはるかに正しい。
ハーバーマスの限界は「討議」のための一定の文化理念の共有を要求することです。結果として「憲法愛国主義」を唱えるに至っています。
結局、「価値観が合わず、話の通じない人間」に対して、ハーバーマスは「排除」か「教化」のいずれかの態度に陥ることになります。
この限りでルーマンの方がはるかに正しいと思いますが、一方でルーマンは「社会秩序」がいかにして形成されるのか?という問題への回答はほとんど回避しています。
社会システム理論家としてそれは間違った態度ではありませんが、この「味気なさ」が物足りなく思われます。

だから私は、ルーマンの徹底して機能主義的なシステム理論を規範理論化していく作業が必要なんじゃないかと思ったりしてます。
これはルーマンの意図とはおそらく反する方向性を持っていますが、そういう作業をしないとルーマンの社会理論が「参照」される程度で、
現実的には使いにくいという難点を結局は克服できず、ハーバマス的な論法が解決策として幅をきかすからです。
>>11でおっしゃっているのはこのことだと思われますが、私はパーソンズ、ハーバーマス的な解決法には基本的に反対で、
ルーマンの視座を積極的に生かす方向を模索すべきだと考えます。

13 :魏伝図:04/01/22 00:39
うーん、やっぱ一度ハーバーマス/ルーマン論争を検討した方がいいのかも。

何故にシステム理論から規範的展望が望めないと考えるのか、
この理由が俺にはよくわからない。
他のスレでも述べたように、システム論に基づいて倫理的、
規範的な問題を考えようとする試みならすでにある。
東氏の著作は読んだことが無いのでノーコメント。

>>1
>この限りでルーマンの方がはるかに正しいと思いますが、
>一方でルーマンは「社会秩序」がいかにして形成されるのか?
>という問題への回答はほとんど回避しています。
ルーマンの問いは「社会秩序はいかにして可能か?」を中心にして
展開されているものだし、それはいろんな人によって強調されているはず。

>ハーバーマスは「討議」を通じた普遍的な価値規範の共有を考えたのに対して、
>ルーマンは互いにシステムを共有しているという現実認識それ自体をその前提として考えた
この部分はいろいろと言いたいことがあるのだが。。。
とりあえず、ハーバーマスは間主観性を根拠付けようとするのだが、
あべこべに、根拠付けは間主観性に依存している、というのがルーマンの反論だった。

14 ::04/01/22 00:57
ハバーマスとルーマン論争を知るには何を読めばいいんでしょうか?
よろしければ教えて下さい。それとルーマンをこれから読もうと思うんですが、
2、3冊ルーマンの著作を挙げてもらえればありがたいのですが。

15 :法政策社会学 :04/01/22 10:44
>>14
あくまでも、門外漢である私個人の独断ですので、参考程度でお願いします。
ハバーマスとルーマン論争について知るには、
『批判理論と社会システム理論―ハーバーマス=ルーマン論争』木鐸社/佐藤嘉一・山口節郎・藤澤賢一郎(訳)
が、その概要を把握するにはよいかと思います。タイトルもモロですし。
ルーマンの入門的な解説本としては、
『ルーマン:社会システム理論』神泉社/ゲオルク・クニール、アルミン・ナセヒ(著) 舘野受男・池田貞夫・野崎和義(訳)
がよいのではないでしょうか。その後に、
『ルーマンの社会理論』勁草書房/馬場靖男(著)
などを私は読みました。私は原著には当たっていないので、ルーマン単独の原著については何とも申せません(−_−)
この程度の紹介ですが、少しでも参考になればいいなと思ってレスしておきました。

>>12,>>13
私は1さんの問題意識と近いものがあるのですが、
>何故にシステム理論から規範的展望が望めないと考えるのか、
>この理由が俺にはよくわからない。
>他のスレでも述べたように、システム論に基づいて倫理的、
>規範的な問題を考えようとする試みならすでにある。
と魏伝図さんがおっしゃることは確かだと思います。
最近で言えば、『責任と正義』で北田暁大氏がそのことを論じていますよね。
おそらく、
>だから私は、ルーマンの徹底して機能主義的なシステム理論を規範理論化していく作業が必要なんじゃないかと思ったりしてます。
と1さんがおっしゃるのは、まさにこの部分の議論のことを想定しているのではないかと思うのですが。
1さん、違ってたらすみません(−_−;)
この論争における私の問題意識は少なくともそこにあります。
「他のスレ」での、この議論を是非拝見してみたいので、できたらそのスレ名を教えて頂けないでしょうか。

16 :法政策社会学 :04/01/22 10:49
[続き]
>ルーマンの問いは「社会秩序はいかにして可能か?」を中心にして
>展開されているものだし、それはいろんな人によって強調されているはず。
つまり、社会秩序の維持・制御の方法論的な展開ですね。
私も主眼はここにあるのですが、ルーマンの社会システム理論は、
えてして現状維持の保守的な発想につながる傾向がある。
1さんの、
>これはルーマンの意図とはおそらく反する方向性を持っていますが、そういう作業をしないとルーマンの社会理論が「参照」される程度で、
>現実的には使いにくいという難点を結局は克服できず、ハーバマス的な論法が解決策として幅をきかすからです。
は、このことを述べられているのではないかと、またしても勝手に想像します(~_~)
私は、法政策学的観点から革新的な「制度」を考案する際に生じうる、
システム理論との不整合に、いかに理論構成して対処するか、という点で現在混乱中です。

また、東氏が「動物化論」で危惧しているのは、「環境管理型権力」と言われるような、
一見、システム論的に見れば、複雑性の縮減に成功し、社会秩序が維持されているかに見えることに対してであり、
この観点からも、何か重要な示唆が含まれているように感じるのです。

長くなってしまってスミマセンm(_ _)m

17 :通りすがり:04/01/22 17:14
ハーバーマスとルーマンの論争について。ご存知のように、両者は1970年代以降も批判しあっていますし、ハーバーマスはシステム理論に部分的に妥協してしまった面がある。
従って、『批判理論』以降の両者の著作もフォローした方がいいと思います。

>ルーマンの社会システム理論は、えてして現状維持の保守的な発想につながる傾向がある

馬場さんも書いていますが、そういう批判はあたっていないと思います。

>システム理論との不整合に、いかに理論構成して対処するか

システム理論を参照しつつ、政策論や規範理論は自論でいくしかないでしょう。
少なくともルーマンから規範的な議論を抽出するのは難しいし、そうする必要もない気がします。

18 ::04/01/22 19:31
>魏伝図さん

なにぶんルーマンは初学者なもので、いろいろとご教授をお願いします。
ルーマンから規範的展望が望めないと言ったつもりはなく、
彼自身は積極的に語っていないし要求することも困難、ということです。
規範理論化の研究蓄積は不勉強ゆえ知りませんでしたが、
少なくともルーマンに依拠する宮台真司「権力の予期理論」や大澤真幸「行為の代数学」などは規範性を度外視した純粋理論だったので。
ルーマン以上に難しいのでこれらの本もあまり理解はできてませんが。北田さんの本はぜひ近日中に読もうと思います。

ハーバマスとの論争は、コミュニケーションが真理の共有によるのか、それともシステムの共有それ自体によるのか、
という違いだと私は単純に理解しちゃってます。
私はルーマンのほうに魅力を感じているわけですが、読みが浅いということであればご指摘をお願いします。

>法政策社会学さん

私の興味も、ルーマン的立場からパーソンズ、ハーバーマス的な規範性を導き出せるのか?というところにあります。

しかし、>>17でもおっしゃられてますが、ルーマンの文章からは「現状保守的」という印象は全く感じません。
むしろ、はっきり言っているかどうかは不勉強で知らないのですが、
「近代社会では『現状保守』が不可能であるという現実を直視せよ!」
というメッセージをルーマンから感じます。
やはりラディカルな「現状破壊」の方向性じゃないでしょうか?

>>17さんが、ルーマン自体からは規範理論を導くことできないし、必要はないとおっしゃっているのに私も賛成です。

19 :14:04/01/22 22:03
>>15
>法政策社会学さん

いろいろ挙げて頂いてありがとうございます。挙げて頂いた本はすべて読む
くらいのつもりで読んでみようと思います。

20 :魏伝図:04/01/22 23:17
通りすがり氏に同意です。

>>15
他のスレというのは
システム論スレッド
ttp://academy2.2ch.net/test/read.cgi/sociology/953495034/l50
てっきり落ちてるのかと思ったら、まだあったんだね、このスレ。

>>1
システムを「共有する」という言い方に少々不安を覚える。
が、指摘と言われても漠然としすぎてなんとも言えない。
まずは自分で読んでみて欲しい。

21 :テレビ情報:04/01/22 23:24
ものすごくクールだよ

22 ::04/01/22 23:30
>システムを「共有する」という言い方に少々不安を覚える。

確かにシステムというものは、「システムがある」というように明確に指示できる
対象ではないので、「システムに属する(している)」程度の表現の方がいいかも
しれませんね。

話は変わりますが、私はハバーマスとルーマンの論争は、どっちが有利であるとも
言えないと思っています。簡単に説明すると、ハバーマスの議論は「対話」に対して
楽観的すぎると思いますし、ルーマンの議論ではあるシステムに所属していない
人間(柄谷なんかがいう意味での「他者」や「異者」)の受容が困難であると感じています


23 :魏伝図:04/01/22 23:55
>>22
ある特定のシステム準拠を選び取って、そのシステムにとっては、
という形で話をすれば、そのような事態もあるのだろうとは思う。

が、極論すれば、社会システムを形成することなしに
コミュニケーションをすることなど不可能なのだから、
システム抜きの対話などと言うのは意味をなさない、
ということになると思う。

24 :魏伝図:04/01/23 00:16
で、ちょっと話題提起。

パラドクスについてなんだが、システム論スレでも挙げた小松さんの
「リスク論のルーマン」を読んでてちょっと気になった部分がある。
136-140ページの辺りでのパラドックスの議論なんだが、小松さんはこう述べている。

「ここには、(システムの視点から離れてみれば)【この部分を押さえておいて欲しい】
一つのパラドックスが見いだされる。つまり、第一の、システムが指示する環境と、
第二の、他の観察者によってであれば観察されうるであろう「外部の」環境という、
この二つの異なった環境が同じである(=違うものは同じである)というパラドックスである」(138)

「システムと環境の差異のシステム内部への再参入としてのシステム合理性は、したがって、
こうした再参入を遂行する過程で、この二つの環境を同一視することに、すなわち
パラドックスを隠蔽することに資しているといえる」(139)

続く。

25 :魏伝図:04/01/23 00:18
システムの視点から「離れて」みれば本来異なるはずの二つの環境が
同一視されているということ、これがパラドクスであり、このこと自体を
見えなくする(隠蔽する)ことが脱パラドクスだとされている。

俺も自信があるわけではないので、たぶんそういう風に言える部分も
あるのだろうと思う。

しかし、俺の理解ではどうも違和感を覚える。とはいえ俺自身明確に
理解しきれているわけではない。
そこで少しパラドクス近辺について整理してみたいし、いろいろと意見も聞いてみたい。

とはいえ、時間が無いので続きはそのうち書きます。

26 :通りすがり:04/01/23 00:43
>>24- 25
ここでは具体的には、どういうことが言われているんですかね。
たとえば、環境省がリスクとして扱ったものだけがリスクとみなされるとか、国が公害の被害者だと認定した人だけが被害者だとみなされるとか、そういうことでしょうか。
そうなると、「真のリスク」や「真の被害者」は環境省や国には「見えない」から、どんどん排除されてしまい、国や環境省の環境政策は正当なものとして見えてしまう。(「システムの閉鎖性の再生産」)。
もしこういう理解でいいとすると、わりとあたりまえな話だという気がするんですが。

27 :魏伝図:04/01/23 00:54
>>26
小松さんは、大まかに言えばそういった主張を行っているわけですな。
例えば、「そもそも、右に述べたようなかたちで【つまり、上で挙げたように】
「環境」を「顧慮」することは、システムが「開放的」になることなどではなく、
逆にシステムの閉鎖性の再生産にほかならない」(137)と述べております。

まあ、そのことも確かに絡んでくるわけですが、とりあえずそれが
中心的なことじゃなくて、小松さんの主張を手がかりに
「パラドックスの脱パラドックス化ってなんじゃらほい」
というのをちょっと考えて見ましょう、という感じで展開してみたいと。


28 :22:04/01/23 02:56
>>23
>ある特定のシステム準拠を選び取って、そのシステムにとっては、
>という形で話をすれば、そのような事態もあるのだろうとは思う。

自分はそうは思わないですね。あるシステムに「準拠」するってのはちょっと
注意が必要だと思います。なぜなら、あるシステムに「準拠」している人間に
とってそのシステムは取替え可能なシステムではないばかりか、その人間に
とってそれが全てであるからです。

>社会システムを形成することなしに
>コミュニケーションをすることなど不可能なのだから、

ここもちょっと自分の考えとは違うんですが、社会システムを形成する前に
言語体系が成立していないとコミュニケーション不可能ですよね。かつ異なる
言語体系に属する人間なら翻訳可能であることがコミュニケーションの
前提となりますね。「社会システムの形成なしにコミュニケ−ションは不可能
である」ということは問題の先送りになりはしないでしょうか?問題はまさに
「社会システム」で示される概念が何であるのか?かつ、そのようにして示される
「社会システム」という概念に我々は実際「準拠」あるいは「所属」しているといえる
のだろうか?ということだと思うのですが。



29 :22:04/01/23 02:56
ここまで書いてきて思ったんですが、この話は魏伝図さんの話題提起と似た議論
ですね。というのも異なる言語体系を翻訳可能だとすることこそ、

>>24
>一つのパラドックスが見いだされる。つまり、第一の、システムが指示する環境と、
>第二の、他の観察者によってであれば観察されうるであろう「外部の」環境という、
>この二つの異なった環境が同じである(=違うものは同じである)というパラドックス>である」(138)

の一つの例であると感じました。「システム」を「言語体系」に、「環境」を「言語」に
置き換えてもある程度通用しますね。もう少し説明すると、A言語を用いる人間@と
B言語を用いる人間Aは異なる言語体系において、同じ対象を観察しているはずなの
に、「この二つの異なった環境が同じである」=〈ここですでに翻訳可能であるという前提
に立っている〉。ここでパラドックスは、〈異なる言語体系を持っている〉ということを
前提としておきながら、それが同じ(であると考えられるような)対象を指示したとたんに
(引用で言えば第一の「環境」と「第二の外部の環境」)〈翻訳可能である〉と見なす事です。
「同じ対象」であると見る時点ですでに一方のシステム(言語体系)に、もう一方が「準拠」
させられているんですね。



30 :22:04/01/23 02:57
自分もシステム論にはとても興味があるのですが、先に一つ自分が疑問?
に思っていることを述べておきます。
システム論でいわれる「システム」という概念が注意しないと一人歩きしていくと
思うんです。まだ「システム」という概念は曖昧で(概念とし明確に定義したとしても、
それが実社会を構成している要素のどれを指すのかがまだまだ曖昧だと感じます)、
理解が困難な対象を「システム」という曖昧な概念ですべて説明してしまうということ
が考えられます(システム一元論)。例えば近代や近代以前のように「システム」の
代わりに「神」を持ってきても、システム論で説明されていることは説明可能
であると思います。訳のわからない現象を、いまいちよくわからない
用語で説明してしまうという事ですね。「強度」なんかもそれにあたると思います。
以上は独り言なんですが。


31 :通りすがり:04/01/23 09:03
>>22
ルーマンをお読みになればお分かりになると思いますが、システムの構成要素は人間ではなく行為やコミュニケーションです。システムは人間の集まりではないです。
また、コミュニケーションは言語によらなくても可能です。
システム理論に対する疑問以前に、お互いに概念の定義が異なると議論になりませんのでご注意。

32 :法政策社会学 :04/01/23 09:31
>>17
>馬場さんも書いていますが、そういう批判はあたっていないと思います。
確かに、馬場氏は、議論の出発点(端緒)問題に言及し、
複雑性という客観的に成立する事態からではなく、
<システム/環境>の区別からルーマンの理論は展開されるものであるとして、
ハーバーマスの批判にも見られるような「現状維持の保守的な発想」という
初期から晩年に渡るルーマン理論に対する批判に鋭く反証しています。

それは了解の上であったにせよ、そもそもルーマン理論の複雑性の縮減を
「制御理論」的な枠組みで捉えて法政策論に採用できるのではないかと考えること自体、
やはり、通りすがりさんがおっしゃるように、
正統な純ルーマン理論からは想定されえないのかもしれないですね。
「実証モノグラフ」にむしろ依拠する具体的な法政策論は、
「一般理論」的な思考法によっては上手く扱えないのかもしれない…(−−)))
ちょっとくじけかかってますが、もう少しその辺りを私は考えてみることにします。
何か参考になりそうな文献や論文、もしくはアドバイスがありましたら、宜しくお願い致します。

>>27
>「パラドックスの脱パラドックス化ってなんじゃらほい」
>というのをちょっと考えて見ましょう、という感じで展開してみたいと。
この、自己言及パラドックスを「不可視化」によって無害化するという「脱パラドックス化」について、
私はPC画面上のマルチウィンドウとタスクバーのような関係をシュミレートして考えてるんですが、
ひとまず>>22さんが議論を展開中なので、その流れと様子を見て、
できるだけ論点が散逸しないようにレスできればなと思います。

33 :魏伝図:04/01/23 10:30
>>28
・あべこべに、社会システムの継続こそが言語の通用を保証する。
・身振り手振りでもコミュニケート可能だろう。
・コミュニケーションはいつでもそれ以前の
コミュニケーションへの指示を伴っている。
したがって、コミュニケーションについて語りうるときには
そこにはシステムが形成されている。
・社会システムとはコミュニケーションを要素とした
システムのことだ。
・準拠と所属は同じではない。例えば人体を分析するにでも、
どのレベルにあるいはどのシステムに準拠するかで見えるものは異なる。
臓器のネットワークのレベルではじめて個々の臓器の機能や
その統一性について語りうるわけだが、分子レベルのシステムに
準拠すれば、もはや臓器のメカニズムや機能は見えてこないし、
その臓器の統一性も失われてしまうだろう。
リアリティがシステムに応じて異なる以上、システム準拠を
明確にしなくてはいけない。


34 :魏伝図:04/01/23 10:48
>>29
それは概念を適当に弄んでいるにすぎない。

>>30
システム論に頼らず語ることは可能だ。例えばギデンズに
依拠して語るのも有りだろう。
しかし、社会学は結局はどこかでシステム概念を持ち出さざるを得ない。

社会とは:関係の編み合わせだ、相互作用だ、ネットワークだ、
生産関係だ・・・などといろんな人があれこれ述べているが、要は
「複雑なシステムだ」ということを指している。誰もが社会は
多くの要素(行為であれ、個人であれ)の相互作用によって
成り立っていることを語る。にもかかわらず、肝心のシステム概念は
一向に精査しようとはしない。システムについての漠然としたイメージに
その説得力を依存したまま適当に語っているのが実情。
だからこそ、システム概念をまず明確に突きつめて考えなくてはいけない。

これは「システム」という用語さえ用いなければそれでよいと言う問題ではない。
様々に多くのものが、複雑な関係を取り結ぶということ、このことは
どういうことなのか、について明確に答えなくてはならない。
その意味では、システム論のインパクトは社会学には不可避なものだ。

35 :22:04/01/23 22:09
>>31
>ルーマンをお読みになればお分かりになると思いますが、システムの構成要素は人間で>はなく行為やコミュニケーションです。システムは人間の集まりではないです。

このように書かれてしますと正直言って反論し難いですね。システムの構成要素を関係性
の視点から捉えることはなにもルーマンの特徴ではないですよ。全体について言及する場合に関係性から見る事は人文系の学問では半ば常識であると考えますが(構造主義以降)。

>また、コミュニケーションは言語によらなくても可能です。

もちろん、「身振り」や「表情」など、非言語的コミュニケーションはいくつか挙げることが
出来ますが、果たしてここで問題にされているような(ハバーマス・ルーマン論争)場合に
「非言語コミュニケ−ション」で「他者」に対して何を伝える事ができるのでしょうか。

また、言語によらないコミュニケ−ションが可能であると言う時、すでに言語の存在は
前提されている事には注意が必要だと思います。身振りも表情も(システムの中ですでに)
言語化されているのです。
そして言語化されている非言語コミュニケーションをシステムに属さない人間へ用いても
通じないことには気を付けなければなりません。なぜなら身振りも表情も自身のシステム
によって存立させられているからです。システムの異なる人間がその身振りや表情を見た場合異なったシステムから解釈をするわけです。



36 :22:04/01/23 22:09
>>33
>コミュニケーションはいつでもそれ以前のコミュニケーションへの指示を伴っている。

規約主義的な考え方ですね。しかしこれはハバーマスの視点ですよ。ルーマンの議論で
このように捉えるとすでに「他者」は同一システムに帰属したことになりますね。

>・準拠と所属は同じではない。例えば人体を分析するにでも、
>どのレベルにあるいはどのシステムに準拠するかで見えるものは異なる。

見えるもの異なるというのは同意しますが、その都度「システム」を持ち出して
階層性に言及する事は、まさに「システム」の無限退行であるといえませんか?

>リアリティがシステムに応じて異なる以上、システム準拠を
>明確にしなくてはいけない。
一方でシステム準拠を明確にしておいて、一方ではそれらをすべてシステムで括るわけ
ですか?


37 :22:04/01/23 22:10
>>34
>それは概念を適当に弄んでいるにすぎない。

弄んでいるつもりはありませんよ。自分では本質的な問題提起をしたつもりですが。
というのもあるシステムに属している人間がそのシステムの「外部」を指示しながら、
かつ他システムをも指示することは、システムの形而上学ですよね。
ここらへんの議論は、橋爪大三郎氏あたりがすでに考えていることだと思いますが。





38 :通りすがり:04/01/23 23:19
>>22

>システムに「準拠」している人間
>システムに属している人間
>非言語コミュニケーションをシステムに属さない人間

人間はシステムに準拠したり属したりするんですか。

39 :魏伝図:04/01/24 01:40
>>36
>しかしこれはハバーマスの視点ですよ。
この点についての論拠を提示して欲しい。
俺の理解しているハーバーマスとはかなりかけ離れている。
「システムとしての討議」をハーバーマスが認めているとは俺には思えない。

>ルーマンの議論で
>このように捉えるとすでに「他者」は同一システムに帰属したことになりますね。
正直何を言っているのかが掴みづらい。補足を。

>というのもあるシステムに属している人間がそのシステムの「外部」を指示しながら、
>かつ他システムをも指示することは、システムの形而上学ですよね。
システムの外部にある別のシステムを参照するということ?
特に問題は無いと思うが。

40 :魏伝図:04/01/24 01:50
で、パラドックスについてなんだが、確か「自己言及性について」のなかで
ルーマンが、パラドックスの脱パラドックス化は近代において
はじめて問題になった、みたいな記述をしている部分が
あったと思うんだが、ちょっと文献を紛失したようで確認が取れない。

確認が取れ次第該当個所をこのスレでも書くけど、
つまり、脱パラドックス化は普遍的な現象なのか、
それとも特定の歴史的な現象なのか、つまり近代的な現象なのか、
これをまずは問題にしてみたい。

詳しい人色々意見を聞かせてください。
興味ない人は構わずスルーしてどうぞ。

ちょっと時間無いんで変な文章になっているかもしれませんがご容赦を。

41 :通りすがり:04/01/24 02:05
>>40
近代的な現象ではないと思う。たとえば、「第三の問い」という論文では、脱パラドックス化という視点から法制史を整理しているよ。

42 :22:04/01/24 02:54
>>39
>この点についての論拠を提示して欲しい。

>コミュニケーションはいつでもそれ以前のコミュニケーションへの指示を伴っている。
この部分がそれに当るのですが。以前のコミュニケーションへの指示=以前のコミュニ
ケーションでは、少なくとも「指示」の共通理解を得た。ハバーマスの議論を簡単に言えば
「対話」の場での共通理解から普遍的真理に到ろうとする過程ですよね。

>システムの外部にある別のシステムを参照するということ?
>特に問題は無いと思うが。

「システムの外部にある別のシステムを参照する」と言う時に、そのシステムの上の次元
にもシステムがあると考えていませんか?
その場合の「参照」とは、自分の属するシステムから「別のシステム」
を解釈することで、解釈したと思ったとたんに、自分のシステムに属することになります。
これを言い換えると、システムの許す限りでの解釈しか、その人間にシステムは解釈を
許さない。


43 :22:04/01/24 02:54
ハバーマスの言うような「対話」が必要になる場では、ルーマンの言うようなシステムと
は取り替え可能でなくなります。
そこで「対話」する人間にとって自己のシステムがすべてであり、対話者は
まったく理解不能な「他者」としてまず現われることになります。だからこそ「対話」が
必要になるのですね。そしてその「他者」は簡単に理解し合えるような「他者」でもありま
せん。

法政策社会学さんにも聞きたいのですが、私の言ってること理解不能でしょうか?
一応私の言ってることは、ソシュールやウィトゲンシュタイン、柄谷行人(他にも
いるのですがいちいち挙げるとキリが無いので)なんかに多くの部分を負っている事
は示しておきますが。

法政策社会学さんにも理解不能だと言われたら、自分の書き方に才能がないと思って
諦める事にします。


44 :法政策社会学:04/01/24 11:13
>>43
おっしゃることは理解不能では全くないです。
むしろ22さんの展開は論理一貫的で説得力があり、
自分の領域を確実に構築されていらっしゃるのだとお見受け致します(−_−)
ただ、この一連のやりとりを見ると、
何か両者の議論の根底に「ズレ」のようなものがあるように私は感じました。
>>22で「ハバーマスとルーマンの論争は、どっちが有利であるとも言えない」
とご自身もおっしゃっていますが、
まさに、このことが伏線として敷かれているのでは?と私は思ったりするのです。
つまり、「ルーマンとハーバーマスの議論はそもそもの地平がズレているのではないか」ということです。

45 :法政策社会学:04/01/24 11:15
[続き]
ルーマンは、
ある現象が成立しているからには背後でそれを支える一般的なものが存在するはずだ、と
は”考えない”。
つまり、そのつど成立している事実的な事態を超えるような何かを、
さらにはその事態の「起源」を想定することを、徹底的に拒否します。
従って、この社会システム理論は、
あくまでも<システム/環境>の区分・差異という「固有値」を用いて社会を記述する、
「一般理論」としてその価値を持つものであり、
問題解決的な思考”以前”の話です。

一方のハーバーマスは、
>>42
>「対話」の場での共通理解から普遍的真理に到ろうとする過程 
つまり、「討議による普遍的合意」という問題解決的な思考によって、
その”延長線上”に社会を記述しようとする。

46 :法政策社会学:04/01/24 11:19
[続き]
この点において、すでに両者は「非対称的」であり、
この「ズレ」を意識しないままに対立的に議論を交わしても
結局水掛け論にすぎないのではないかと思うのです。
私は法政策という問題解決的な思考からルーマンの一般理論に迫ったわけですが、
どうやらその思考では、到達できない、
というより、一旦その思考・志向を捨てて接近する必要があることを実感しつつあります。
単なる誤読と言って一蹴してしまえばそれまでなのですけど、
ルーマンに対する批判が今日においても量産されるのは、
この部分の食い違いが明確に認識されていないからなのではと私は考えますが、
魏伝図さん、通りすがりさんはどう考えていらっしゃいますか?


47 :法政策社会学:04/01/24 11:24
[補足]
>>35
>システムの構成要素を関係性の視点から捉えることはなにもルーマンの特徴ではないですよ。
>全体について言及する場合に関係性から見る事は人文系の学問では半ば常識であると考えますが(構造主義以降)。
22さんの述べられている通りだと思います。
ルーマン自身もコミュニケーション概念は、記号論的言語学やテクスト理論などの
スタンダードな知見に属していると言っている(そうです)。←『ルーマンの社会理論』(馬場靖男)。
この本では、ウィトゲンシュタインの「連鎖の最後に来る説明」の発想などを引用して、
「固有値」の説明なんかをしています。
もし、まだお読みでなければ、ルーマンの理解をさらに深める上で一読の価値はあると思いますよ。


48 :魏伝図:04/01/24 21:16
>>41
文献紹介ありがとう。検索してみたが『社会システム論と法の歴史と現在』に
所収のやつでいいのかな?今度読んで見よう。

で、俺も基本的にはそう思うんだけど、何と言うかな、
前近代から近代への移行に伴い何の変化もなかったわけではないだろうし、
そこの部分をちょっと突き詰めてみたいというか。

で、文献が見つかったので気になった場所を書くと、
『自己言及性について』第六章「現代社会の自己記述における
トートロジーとパラドクス」のところ。

ここで、脱トートロジーと脱パラドクスについて次のように記されている。
まずシステムを観察する異なった形式としてトートロジカルなそれと
パラドクシカルなそれが挙げられている。つまり
・「社会は今あるようにあるべきものである」=トートロジー
・「社会はいまあるようにあるべではない」=パラドクス
(正確にはトートロジーもパラドクスの一形態なのだが)。
むろん、これではコミュニケーションが接続しないのでこれらをそれぞれ
脱トートロジー化ないし脱パラドクス化しなくてはならない。
それに応じて、どちらのアプローチに近い立場を取るかによって
例えば保守主義と革新主義やら、あるいは社会学における
実証主義と批判理論の対立といった周知の現象が登場してくる、と。


49 :魏伝図:04/01/24 21:35
上の続き

ところで、上の意味で「脱パラドクス化」を語るならば、これは
近代的な現象だとルーマンは言っているように思われる。
少し大雑把にまとめると

・書字の発明
・観察と記述の分化
・観察と行為の(観察とオートポイエーシスの)分化
―――↓ここから下が近代になって加わった要素?――
・自然による代理表象のチャンスの喪失
・宗教的世界観の衰退(ゼマンティクのレベルでの外部準拠から自己準拠への移行。
例えば『社会システム理論』840以降を参照)
・再帰のレベルでの自己準拠

この図は関連すると思われる事柄を思いついた限りで
並べたものだから、疑問点があれば質問して欲しい。

で、上に挙げた脱トートロジーと脱パラドクスの議論は、
近代において自然による代理表象のチャンスが失われたにもかかわらず、
いかにして自己記述が可能になるのか、という問いに続いて行われている。
だから、ここでの議論は近代に限定されて語られていると思われる。

だから、おそらく正確には、広義の意味での「脱パラドクス化」と
狭義の意味での「脱パラドクス化」があるように思われる、のだがどうだろうか?
その場合、上記に挙げた諸要素がどのように関連しているのか?
その辺りを整理してみたいというのが俺の望み。

50 :魏伝図:04/01/24 21:45
で、1氏と法政策社会学氏は、それほどルーマンと
ハーバーマスの対比が気になるなら、まずは実際に
ハーバーマス・ルーマン論争を読んでみるのが
筋だと思うのだが、どうか?

そうすれば疑問点などよりクリアになるだろうし、
その方がここで俺の意見を聞くよりも手っ取り早く
確実だと思われる。

51 :白やぎ:04/01/24 21:50
http://www.miyadai.com/index.php?catid=7&blogid=1

52 :22:04/01/24 22:19
>>44
>何か両者の議論の根底に「ズレ」のようなものがあるように私は感じました。

自分の言いたい事もそれに関係しています。ハバーマスの考え方(理論)も、
ルーマンの考え方(理論)も、理論である限り同時平行的に存立可能なんです。
理論であるから前提が同じではないのです。そして問題点だけを共有している
からまさに「水掛け論」になるわけですね。(この点については科学哲学の、理論の
「共役不可能性」という考え方からハバーマス・ルーマン論争を見ると生産的な理解
を得られると思います)

>ルーマンは、ある現象が成立しているからには背後でそれを支える
>一般的なものが存在するはずだ、とは”考えない”。
>つまり、そのつど成立している事実的な事態を超えるような何かを、
>さらにはその事態の「起源」を想定することを、徹底的に拒否します。

ここはわかります。ルーマンのシステム論とは状況記述的な方法であるわけです。
そこに時間性を組み入れる事を拒否しますね。システムの逐次変化まで、システム
論で押さえる事は出来ないわけです。ソシュールの用語でいえば「共時態」の把握
ですね。ソシュール自身、共時態に時間性(構造の変化)を組み入れた「通時態」を
把握しようとして頓挫しています。
「ある現象が成立しているからには背後でそれを支える一般的なものが存在するはずだ、
とは”考えない”。」、「考えない」というよりも考える事が不可能なのです。「背後」を
考えてしまうと、システム論ではそれも上部システムから説明しなければならなくなり、
このことが無限退行(「背後」システムの「背後」を考えなければならなくなる、そして
それが繰り返される)なんです。形而上学というのもここに関係してきます。
それと先のコミュニケーションの議論で非言語コミュニケーション云々で、
社会システムの成立が先というのがありましたが、これをシステム理論で説明したら
ダメなんですね。それこそが「起源」の「捏造」(たぶん、ここはデリダの考え方をルーマン
は踏襲していると思います)になるわけです。


53 :22:04/01/24 22:21
>「一般理論」としてその価値を持つものであり、問題解決的な思考”以前”
>の話です。

これもわかります。ルーマンのシステム論的な考え方では、その「問題」の成立
(なぜそれがこのシステムの中で問題なっているのか?)までを追うことになり
ますね。システムとして捉えることは、そのシステムが静的でなければなりません。
よって問題の解決は時間性を伴う(未だ「問題」であるから、解決は未来に先送りされる
=時間性を伴う)からシステム論で記述不可能であるわけです。解決されたあとに
記述することはもちろん可能ですが。

>一方のハーバーマスは、

一番自分が言いたかったことは、一見ハバーマスの「対話(討議)」という言葉は、当たり
前というか、なんら説得力が無いように思われますが、ハバーマスは哲学の歴史を
背負ったあとに、「対話(討議)」と言わざるを得ないような場所から思考しているわけ
です。そこの理解なしにハバーマスの議論を切り捨ててしまうのは、ハバーマスの
議論の真価を見落とすことになると思ったわけです。

それに対してルーマンは社会学界での創造者であるわけだから、ルーマンの方に軍配を
あげたくなるのもわかります。しかし、ルーマンのシステム論的な思考の限界は、一応
哲学系の学問(特にソシュールの『一般言語学講義』やウィトゲンシュタインの『論理哲学
論考』)で出尽くしているわけです。その限界を超えようとしたのが、ウィトゲンシュタ
インの『哲学探究』やいわゆるテクスト論者(バルト、クリスティバ、デリダなど)で、
それら一連の議論を(ある程度であるが)背負った後からハバーマスは考えているわけなん
です。(宮台真司氏の『サイファ』はその限界に宮台氏自身、自覚的でやはり優秀な
人なんだと思いました。生意気ですが…)


54 :22:04/01/24 22:22
法政策社会学さんは、ルーマンを法政社会学に組みこむことに限界を感じられている
とおっしゃっていますが、自分はまだまだ可能性は充分にあると思います。それで、
法政策社会学さん自身そちらの方向へ進むのなら、ぜひともテクスト論は押さえて
置いてもらいたい。そこに可能性が見出せると思います。ポストモダンなどと安易に
一括りに言われがちですが、テクスト論で言われたことの一部は後戻り不可能な地点
まで来ていると思います。それで、一冊お勧めの本を紹介しておきます。
『間テクスト性の戦略』土田智則 夏目書房

自分の考えでは「純ルーマン」を解釈しようとすることは、パラドックスに陥ると
考えています。つまり「純ルーマン」はどこにもいないわけです。

「誤読」や、可能性とはどういう意味での可能性なのかについてはもう少し説明したいの
ですがまた今度できたらすることにします。




55 :22:04/01/24 22:31
訂正
「共役不可能性」→「共約不可能性」


56 :通りすがり:04/01/24 23:29
>>48
何となく、小松さんへの違和感の話とはずれてきているようだが・・・(w
『自己言及性について』はいま手元にないので、後でできたらレスします。

57 :魏伝図:04/01/25 00:06
>>56
確かにちょっと話がずれてきているかも。
まず先に「パラドックスとは何か」からはじめたほうが適切なのかもしれない。

まあ、暇なときにでもぼちぼちとレス頂ければ幸いです。
それまでに、自分も時間があればもう少し問題設定を煮詰めてみよう。

で、興味ない人は構わずスルーして議論の方どうぞ。

58 : :04/01/25 03:12
おいおい、上の二人!なんだかタコツボ化してきてないか?
「読めばわかる」的なこと書かれてもなあ・・・。説明できるんだったらしてやれよう。できないから回避してるようにも見えるぞ。
ROMってる限りでは、一生懸命論じてるやつのほうがルーマン万歳じゃないぶん納得いくんだけど。
「ルーマンの勝ちでおしまい。」って・・・あ、あなた。ルーマンマンセー!!って叫んでるようなもんだよ、それ・・。
きっと「ルーマンにちょっとでも批判的=ルーマンが理解できてないだけ」の論理なのね。。まぁタコツボの会話も結構だけども、、、

59 :魏伝図:04/01/25 10:49
>>58
俺は説明する力量がないから読んだほうが確実だし
手っ取り早いだろうと言っている。
もし一人で読むのがつらいと言うなら協力しよう。

60 :通りすがり:04/01/29 02:20
『自己言及性について』の原書が参照できず、議論が難解な上に翻訳は日本語ではないので論じるのが非常に不安ですが、一言だけレス。
上掲書の116頁あたりにもあるように、脱パラドクス化は、観察=区別に不可避なもので、近代社会に特有な現象ではないと思います。
ルーマンが第8章で描いているのは、近代社会の自己記述、脱パラドクス化の特徴でしょう。
そこではたとえば「イデオロギー」が、パラドクスを隠蔽する(脱パラドクス化する)方法として利用された。成層社会の特権的な代理表象が駄目になったから、別のものが出てきたという訳です。
ですから、広義・狭義という分類をするのは、何となく釈然としませんね。

61 :通りすがり:04/01/29 02:23
第8章 ではなく第6章 でした。

62 :魏伝図:04/01/30 03:30
>>60
俺も確信があるわけではないので意見は大変にありがたい。

で、返答を書いていたのだが、さっきPCがトラぶって全部消えた・・・。
また全部書く気力がないので細かい内容はまたいずれ。

ただ、確かに、広義と狭義というのは問題だけど、もしかしたらこの区別は
自己準拠の三つのレベルの話に関わっているのかもしれない、
などと言うようなことをふと思いついた。まあ、またいずれ書きます。

63 :門が如何:04/02/02 02:03
オートポイエーシスのスレってどっかにないのかな

64 :Niklaus:04/02/04 14:50
るーまんの『社会の法』って入門書として最適ですね!

65 :法政策社会学:04/02/05 21:04
>>54 22さんへ
レスが相当遅くなりましたが、私の問題意識を汲み取って頂いた上に、
書物も提示して下さって大変ありがたく思います。
『間テクスト性の戦略』熟読しました。

この著者で土田氏は、「間テクスト性」の問題を「読み」の問題に接続することの可能性を、
「間テクスト性」理論の一戦略として掲げていましたが、
その戦略の実践としての「読み」の具体的な考察に、本格的には踏み込んでいなかったので、
正直多少の物足りなさというか残念な感じも受けました。
けれども、本書の結びにあるR・スコールズの「間テクスト的行為」の若干の説明から、
この間テクスト理論という概念装置の戦略性が垣間見れ、
文学理論に留まらない有効な戦略性を持っていることを十分伺い知ることができますね。
まだあやふやで確実な理論化は伴いませんが、
自分が目論んでいる事に対して何か強力なヒントを得た気がします。
>そこに可能性が見出せると思います。
まさしくです。紹介ありがとうございました!

66 :法政策社会学:04/02/05 21:05
[続き]
>>54
>ポストモダンなどと安易に一括りに言われがちですが、
>テクスト論で言われたことの一部は後戻り不可能な地点まで来ていると思います。

つまり、一言で言い表すならば「否定神学批判」ということですよね。
私は先の書を、その中でも指摘されていたように、「差延」との相等性などから、
後期デリダの間テクスト的スタイルというものを改めて認識しながら読んだのですが、
土田氏の「読み」の戦略、つまりテクストを「読む」ことの変形的実践(不連続的飛躍)を、
デリダの否定神学批判としての「郵便的脱構築」に短絡しても大差はないのではないかと考えます。
さらに、
>>52で22さんもおっしゃっていますが、
>社会システムの成立が先というのがありましたが、これをシステム理論で説明したら
>ダメなんですね。それこそが「起源」の「捏造」(たぶん、ここはデリダの考え方をルーマン
>は踏襲していると思います)になるわけです。
宮台氏のこの文書を見てもらえばよくわかるのですが、→http://www.miyadai.com/texts/azuma/index.php
このことはルーマンにも確実に接続する話だと思います。

67 :法政策社会学:04/02/05 21:06
[続き]
そして同時に、デリダにせよ、ルーマンにせよ、
上記の否定神学批判、ルーマンの用語系ならば「脱パラドクス化」という概念を採用した途端、
ここでどうしても「転倒」が起きます。
魏伝図さんとの以前の議論での22さんの主張はおそらくここにあったと思われます。
>>54で、
>自分の考えでは「純ルーマン」を解釈しようとすることは、パラドックスに陥ると
>考えています。つまり「純ルーマン」はどこにもいないわけです。

と22さんが述べておられるのは、まさにこの「転倒」のことで、

>「誤読」や、可能性とはどういう意味での可能性なのかについて〜

の「誤読」というのは、これも「転倒」に関わるものではないかと。
さらに、それゆえの「可能性」を22さんは言わんとしているのではないかと。

以上、説明をかなり省いた上に、延々と好き勝手な解釈を施しましたが、
もしこのレスを目撃されて、なんとなく気が向いたときなぞありましたら、
レスお願いしたいところです(_ _)」

>>64
『社会の法』読む価値大大有りですよね!読みたいんだけどちょっと高額です。しかも2分冊(泣)
しかし、いずれ私も購入する心づもりであります。 


68 : :04/02/06 00:17
法政策って変な言葉だな・・・

69 : :04/02/06 00:24
『社会の法』買って読むのもオススメだが

そ れ よ り な に よ り ま ず さ き に

ttp://thought.ne.jp/luhmann/
ココ行ってリンク貼られてる文章全部読んでこい。
話はそれからだ>ここで議論してる連中

70 : :04/02/06 00:29
>>69
遂に来ましたか

71 :魏伝図:04/02/06 03:35
>>69
俺も勉強の途中なのでそう責めんでくれ。
それに、リンク読む暇があったら実際にルーマンを読むよ。

『社会システムと法の歴史と現在』を読んだ。
紹介ありがとう>通りすがり氏

しかしやっぱりパラドクス周辺はすっきりしないな。

俺の小松氏に感じていた違和感というのは、そのマルクス主義的な
見方への近さの故に、と言っていいかもしれない。

ところで、ルーマン自身が自身のアプローチのマルクス主義への、
というかフランクフルト的な批判理論へのある種の近さみたいなのを
語っている。と同時に、それとは異なるのだと言うことも語っている。

しかし、どう異なるのだろうか?

72 :魏伝図:04/02/06 03:48
少なくとも、ルーマンはシステムがそれ自体としてパラドキシカルなのだとは
言っていない。これが一つあると思う。

ここでは、パラドクスとその隠蔽は観察者によって見いだされるものであり、
その意味ではパラドクス「と」その隠蔽とを結ぶ「と」は、
まさに馬場氏がその著作で強調しているような意味での「と」だと
言っていいかもしれない。

にもかかわらず、システムの自己観察が問題になるときには
まさにそのように、つまり、システムにはまずパラドックスがあって、
次にそれをシステムが隠蔽するのだ、というように語っているように読めてしまう、
ような気がするのだがどうだろう?

つまり、なるほど、システムをパラドキシカルなものとして
観察するのはそのシステムを観察する観察者だが
しかし、システムの自己観察においてもまた、システムは
パラドキシカルなものとして観察されるのだ、ということだろうか。

とすれば、観察とオペレーションが、構造とゼマンティクが明確に分化し、
かつシステムの自己記述が問題化する以前と以後で
問題を区別しなくてはならないのではないか、といったことを
考えていたわけだ。脱パラドクス化の様式の時代的な違いと言えば
確かにそうなのだけれども、問題の位相がかなり異なるような気がするのだ。

まあ、読みが足りないだけかもしれないが。

73 :魏伝図:04/02/07 02:33
考えるほどわからなくなってきた。

そもそもパラドックスとは何のことだ?
決定不可能性のパラドックスのことか?
(例えば、『自己言及性について』p19
「システムは、みずからを脱-パラドクス化する。それは、「決定不可能な」決定を要求する。
社会システムの場合、それは行為の属性に関する決定である。
・・・論理的には、行為はつねに根拠の無い行為であり、また決定は根拠のない決定である。
・・・だからといって、このことが致命的な帰結にいたるということはない。システムそれ自身が
経験を重ね、先行する行為を基礎に、将来の行為に関わる予期をまとめながら、
自らの行為と決定の習慣を学習するのである」)

自己言及のパラドックスのことか?
(例えば、『社会システム論』p50-あたり
「準拠がパラドックスになるのは、そうした準拠を否定し得る可能性が新たに生じ付け加えられて、
そうした否定が、準拠している自己に当てはめられたり、準拠されている自己に当てはめられたりしており、
しかも、こうした二つの可能性のいずれかということが、自己準拠に基づいては決定できない場合である」)

それとも、これらに共通なものなのか(たぶんそうなのだろうと思うが)。
何か手がかりになるような文献があれば紹介して欲しい。

74 :22:04/02/08 09:02

法政策社会学さん
法政策社会学さんのレスから相当に他領域の分野への目配りがうかがえます。
おそらく、柄谷行人や東浩紀あるいはジジェクや…を読んでいるようにうかが
えます。
『間テクスト性の戦略』だけでは正直、可能性というものも実感としてあまり
感じられないかもしれません。具体的な例で説明するとハイデガーの「現前の
形而上学批判」から「形而上学の解体」へ、そこに注目したデリダが形而上学の
「解体」を「脱構築」へと読み替えたわけです。ハイデガーやデリダを読んでいる
暇はないと思いますので柄谷行人を例に挙げて説明しますと、柄谷の『マルクス
その可能性の中心』が具体的な創造的「読み」の実践例になると思います。
色々説明したいのですが言いたいことがありすぎてちょっと簡単に説明すること
が出来そうにありません。ただ言いたいことは、自分は、柄谷行人は世界でも第一級
の仕事をしていると思っています。それでなぜここまで柄谷がすばらしい仕事が
出来るのかと考えるのですが、柄谷はまず文芸批評家として出発していますね。
それが大きいと感じています。ウンベルト・エーコやクリスティバやバルト、
デリダなんかは読んでいるわけですね。そこが大きいと思っています。


75 :22:04/02/08 09:02
法政策社会学さんも、自分なりの読むこととはなにか?というようなスタンスを
明確にしておくと後々役に立つと思います。自分はある程度のスタンスが出来た
のですが簡単に説明すると、純〜をテクストから読み込もうとすることは読みの
形而上学だと思っています。読みの形而上学とは自分で勝手に作ったのですが
テクストの背景に超越論的な存在、ここで言うと純ルーマンを設定することですね。
いままでそれを代表していたのが〜学会で、その〜学会の役割はラカン→大澤的に
言うと「第三者の審級」と言えると思います。それがテクストの意味を一義的に決定
しようとする権威、あるいは装置として機能していたわけです。そうだと言って
〜学会が無意味だと言う訳ではまったくありません。
テクスト論の後戻り出来ない地点というのは、具体的に言うならその「第三者の審級」
(権威)を無効にしてしまったことです。それが創造的になされた「読み」ならばこの
審級を無効にしてしまうわけです。法政策社会学さんの言うように「否定神学」という
用語を用いても同じようなことを説明出来そうですね。
長くなりましたが、要は70年代〜80年代に日本において起こったことを単に
ニューアカなどと馬鹿には出来ないし、それを簡単に切って捨ててしまうことも
出来ないということですね。


76 :22:04/02/08 09:03
魏伝図さん
>そもそもパラドックスとは何のことだ?
>決定不可能性のパラドックスのことか?
本当にルーマンは色々な学問を横断しそれを統合しているので難しいです。
自分はルーマンがパラドックスというときに参照しているのは、クレタ人のパラドッ
クスとそれを解決しようとしたラッセルのロジカルタイプ、ラッセルのパラドックス
(ラッセルがフレーゲに宛てた手紙で指摘した集合論のパラドックス)、ゲーデルの
不完全性定理(これは自分としては直接システム論に応用出来るか疑問ですが)だと
思います。これらを知っていることが当たり前のように前提されて書かれていますね。

直接この問題について参考になるかわかりませんが、現代論理学の述語論理の
部分、特に個体をXとして命題を構成することを可能にした部分を押さえておく
のはルーマンを理解する上での手助けになると思います。これも当たり前のように
前提し、応用しているように思います。あと構文論と意味論ですね。ルーマンも
意味論を応用してゼーマンティクという概念を作っていますし。時間があれば
命題論理のある程度の知識を持っておくことも述語論理を理解する上で役立ちますよ。
それで自分のお勧めは、野矢茂樹『論理学』(東京大学出版会)の述語論理の部分ですね。
かなり読みやすいです。


77 :22:04/02/08 09:03
自己言及が問題になるのは、おそらくオートポイエーシスを応用しているからだと
思います。システムが自己充足的な閉じた体系を作るからですね。この点は
パーソンズはシステムに階層性を持たせているので問題にはなりにくいと思います。
閉じた系を作ると決定不能性や自己言及の問題が出てくるわけです。自己言及の問題は
ラッセルのロジカル・タイプを設定することで一応の解決が出来ますがシステム論に
それを設定することは出来ないと思っています。ルーマンは環境に開いていると言っ
ていますが自分はこの部分に少し疑問を持っていますね。

>少なくとも、ルーマンはシステムがそれ自体としてパラドキシカルなのだとは
>言っていない。これが一つあると思う。

そうですね。おそらくある種の決定が要求される場合にパラドキシカルな問題が見出
されるということでしょう。「システムは、みずからを脱-パラドクス化する」という
のはパラドクスを避けて=脱、システムが決定しようとするということでしょうか。
そうしないとシステムの維持が出来ないですから。

自分も一つ質問したいのですが、誰かハイデガーを引用してルーマン批判をしている
人はいないでしょうか?「現前の形而上学」批判はルーマンにも当てはまりそうなんで
すが。



78 :通りすがり:04/02/08 12:08
>>魏伝図さん

脱パラドクス化は観察と関係しているが、システムは自らのパラドクスを
観察「してから」隠蔽する、という構制ではないと思います。
システムはパラドクスを自己観察できないでしょう。

それから、あなたが気にしている近代社会と脱パラドクス化との関係は、
近代社会が機能分化し、二値的コードで作動しているという話につながる
と思います。
高橋徹『意味の歴史社会学』(世界思想社)や、そこで紹介されている、
ルーマンの『社会構造とゼマンティク』の中の文献を読むといいのでは。

79 :魏伝図:04/02/08 14:05
>>22
紹介ありがとう。
だが、実は俺はまさにパラドクスを論理学的なパラドクスの
ことだと理解していたのだ。
つまり、『社会システムと法の〜』における今田氏のような理解をしていた。
それ故、アルファベットや書字の発明と結びついているだろうし、
その意味で歴史的に限定的なものではないかと。
ところが、ルーマンはもっと広い見方を取っているらしい。

そこでもう少し具体的な方向から問うてみようと思って、
社会システムがパラドキシカルであるというのは何ゆえなのか、
という意味で、決定不可能性の決定の故なのか、自己言及の故なのか、
両者の関連は如何に、といった問いを出してみたわけだ。


80 :魏伝図:04/02/08 14:18
決定不可能性のほうは、馬場氏の著作で言えばDKの話に
関わると思うのだが、つまり例えば貨幣が支払われるのは
貨幣が支払われるからだし、人々が法に従うのは法に従うからだ、
といったことを指している、と思われる。(アプリオリの事後性とでも言うのか?)
いわば、コミュニケーションの「根拠」がコミュニケーションの
継続それ自体によって供給されている。
「理論構築が進展するにつれて、端緒の恣意性からもまた、恣意性が奪われていく。
・・・かくして自身を担う構築物が成立する」(引用は馬場氏の『ルーマンの・・・』p11)

自己言及の方は、いわゆるクレタ人の話もそうなのだが、
社会システムの場合、システム内でシステムを表象すること、
つまり私を見る私、といった話に関わっているように思われる。
見る自己を否定するのか(その場合見ているということが余分なものになる)、
見られる自己を否定するのかに応じて、私は私であり、
私は私ではない、ということになる。

どちらも説得力があり、納得がいくのだが、関連がよくわからない。
そもそもこれら二つを区別することが不当なのかもしれない。

81 :魏伝図:04/02/08 14:56
それから、現前の形而上学がルーマンに当てはまる、というのは、
正直、かなりナンセンスな問いの部類に入ると思う。

ハイデガーというか、実存哲学の立場からの批判ならある
(ランドグレーベ(だっけ?))が、現前の形而上学には特に関わらない。
(責任と人格性みたいな話になっていったような)。

ハイデガーに基づきつつ、現前の形而上学批判を真剣に受け止めつつ
自己の理論に取り入れている者としては、実はギデンズがいる。
もしやる気があるならギデンズとルーマンを比べてみるのも面白い「かも」しれない。
正直お薦めできないが。

>>78
>システムは自らのパラドクスを
>観察「してから」隠蔽する、という構制ではないと
いつもすいません。確かにその通りです。

二値的コードのことはすっかり念頭から外していた。
その点も含めて考えてみないといけないなあ。
『社会構造とゼマンティク』・・・誰か邦訳出してくれないかな。
一応取り寄せては見るけどね。


82 : :04/03/18 21:28
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/customer-reviews/-/books/4782802080/250-9367915-1233803
この本おもろいよ
読んでみぃ


83 :名無しさん@社会人:04/05/06 17:26
法哲学&法社会学掲示板
http://ex.lv3.net/philosoc/


84 :名無しさん@社会人:04/05/06 18:36
まずシステムありき?

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